勝部元気(かつべ・げんき) コラムニスト・社会起業家
1983年、東京都生まれ。民間企業の経営企画部門や経理財務部門等で部門トップを歴任した後に現職。現代の新しい社会問題を「言語化」することを得意とし、ジェンダー、働き方、少子非婚化、教育、ネット心理等の分野を主に扱う。著書に『恋愛氷河期』(扶桑社)。株式会社リプロエージェント代表取締役、市民団体パリテコミュニティーズ代表理事。所有する資格数は71個。公式サイトはこちら
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
注目すべき「運動カーストコンプレックス」問題
東京オリンピック・パラリンピックの開催も3年後に迫り、また医療費抑制が国として喫緊の課題であることから、運動習慣が積極的に奨励されています。スポーツ庁長官の諮問機関であるスポーツ審議会も2017年3月に「1億総スポーツ社会」の実現を掲げた答申を発表し、スポーツが嫌いな中学生を現在の半分に減らす目標を打ち立てました。
ところが、このようなスポーツ庁の動きに対して、インターネットでは反発の声があがりました。とりわけ、「体育の授業が原因で運動嫌いになった」「よけい嫌いになる」「スポーツ嫌いではなくて体育嫌いなだけ」と訴える人が少なくないようです。
フジテレビ系のトーク番組「久保みねヒャダこじらせナイト」でも、視聴者からの投稿によるコーナー「体育への恨みつらみ川柳」が人気を博しており、体育の授業に関する問題がにわかに注目を集めています。
では、なぜ体育の授業で運動嫌いになるのでしょうか? その背景として、私は体育の授業に見られる以下の2点が最も大きな原因ではないかと考えています。
(1) 「皆と一緒に」という集団行動のメリットや楽しみにばかり視点が置かれていて、単独行動の楽しみが無視されていること。
(2) 運動神経は子供のアイデンティティー形成にとってセンシティブな問題であるにもかかわらず、配慮が一切なされていないばかりか序列化を助長してしまっており、運動が苦手な子供に「運動カーストコンプレックス」(※著者による造語)が生じること。
まず、体育の授業において、体を動かすこと自体の楽しさよりも、「皆と一緒に運動する楽しさ」が主眼に置かれていることが少なくありません。ですが、現実的な問題として、試合等では、どうしても上手な生徒や運動神経の優れた生徒が主導権を持つため、運動が苦手な生徒が楽しめるわけがありません。
もちろん大多数の学校では、国語や算数等でも習熟度別のクラスになっていないわけですが、これらの科目は完全に「個人競技」であり、「チーム分けをして点数を競い合う」ことはまずありません。国語や算数はできなかったら自分ができないだけで済みますが、集団行動をベースにした体育の授業では、自分ができないことが周りにも影響してしまいます。
「算数をチーム分けして点数を競い合う方式にしつつ、参加者全員が楽しめるような授業を展開せよ」と言われたら、教師もかなり難しいと感じると思います。ですが、そのようなことが体育ではさほど配慮することなく行われており、運動が苦手な子供は周りに対して申し訳ない思いをしてしまうのではないでしょうか。
もちろん、運動神経に差があっても一緒に楽しむことはできますが、それはそのスポーツ自体の楽しさを知っていることが前提です。知っているからこそ実力差があっても楽しめるのであって、楽しさを知らない段階でいきなり一緒にやらされれば、嫌になるのも当然ではないでしょうか。
二つ目は「運動カースト」です。
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