杉田俊介 著
2017年10月05日
『無能力批評――労働と生存のエチカ』(大月書店、2008年)はご存知だろうか。『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院、2005年)でロスジェネ世代の犀利な自己分析の力を証明し、一部の熱い注目を集めた著者が、反時代的とも言えるスタイルを持った彼独自の身体的な思索を、障害学や生命倫理の領域にまで広げたものとして刊行した本だ。介護の現場で働く若者が、そこに見える現代の問題と矛盾を全身で引き受け、迷いと希望が絶え間なく交錯する己の思索と営為を、思想とサブカルチャーの領域を行き来する独自の批評空間の中で、リニアな統合性には敢えてこだわらず、内(己)と外(社会)に向って忌憚なくひらいてみせた、思想書ともエッセイともつかない優れた本である。
本書は、その背筋の通った「迷い」、あるいは欠くべからざる「揺らぎ」とも言うべき彼の反新自由主義的な思索を、大ヒットした伝説のマンガに託して、さらなる深みに向かって展開しようとしたもの。
先に刊行されたばかりの『宇多田ヒカル論――世界の無限と交わる歌』(毎日新聞出版、2017年)とどうやら刊行が後先になったようだから、執筆にあたってはかなり苦吟を強いられたものと想像する(その苦吟もまた、自己と他者にまたがる「生」(=生きること、生きていること――筆者注)の足跡と捉えるところが、彼の大きな魅力でもあるのだが)。
さて、本書の「序」の冒頭に、いきなりこういう宣言がある。
『ジョジョの奇妙な冒険』(以下、『ジョジョ』と略記――原文ママ)というマンガから、この人生をよりよく(斜体は原文では傍点)生きるための思想(倫理)を学び直すこと。
それがこの本のテーマである。
「よりよく」に傍点を振ったところに、彼の実生活に基づく困難な現実に対する判断力が、「生きるための思想(倫理)」と書いたところに、『無能力批評――労働と生存のエチカ』にもつながる彼の真面目さとラディカルな本質が、そして「それがこの本のテーマである」と言い切ったところに、彼の熱さが表れていると愚考するが、この3点の上に、さらに上述の「生」の「揺らぎ」と「迷い」が重層的に重なっていくところに本書の真の醍醐味があると言っていい。
その醍醐味を伝える著者のエピソードを紹介すると、たとえばこういうことだ。――A君というヘルパーがいた。軽い知的ハンデがあり、いろいろ問題のある人だった。そのA君がよくヘルプに入る、重度の自閉症のB君という青年がいた。B君のサポートをするのはベテラン職員でも大変で、いつも苦労とトラブルが絶えなかった。しかし、A君がB君のヘルパーに入ると、B君はA君の側を離れず、危険なところにも行かないで、リラックスして自由そうに動き出すのだ。しかし、はたから見ると、A君は何か特別なことをしているようには見えない……。
こういう関係もあるのかと著者は驚く。そして自分に向かってこう呟くのだ。――この私の側にこそ、自分でも今まで気づけなかった無能さや障害があるのではないか、と。さらに彼の実感はこう喝破する。――そこには、たんに「できる人ができない人を一方的に助けている、補っている」というだけではない関係があるのではないか。所有や能力によって分業するのではない、別次元の協働があるのではないか。誰かをケアして助けているつもりが、じつは誰かからケアされ、助けられているのだ……と。
彼は「あとがき」でこう書いている。「本書を書きながら、ずっと考えていたのは、この地球上で展開されてきた『平等』というものの怖さと凄みだったような気がする」と。誤解のないように補足しておけば、これは、ケアして助けていた人に、逆に助けられていると気がつくことによって、能力は平等ではないと思い込んでいた日常の自分の足下が掬われてしまう「怖さ」であり、そういう反転を生む存在の「凄み」ということだろうと思う。
ここまできて、著者の思想とキャリアから、相模原で起きたあの障害者殺人事件を思い出す読者もいるだろうと思う(彼には、社会学者・立岩真也と対談し、2016年に青土社から刊行した『相模原障害者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』という著書がある)。
あの事件と、われわれが向かい合う際の一番の困難は、犯人が信奉した「優生思想」が、近代社会に蔓延し、著者も含んだ我々の間に広く内面化している「能力による人の選別という観念」を本質としていることだ。
すると、著者が言う「別次元の協働」や「平等の凄み」が、あの悲惨な出来事に向かい合う補助線としていかに大事かということが逆の意味でわかると思う。見ようによっては、あの事件は我々と我々の社会が引き起こしたというメタファーも可能だからだ。
さらに、あの事件で障害のある肉親を殺された家族のことばを辿れば、「ケアして助けているつもりが、逆にケアされ、癒されてもいた」ということが、当事者の間では、普通に起こっていたことがわかる(その意味では、被害者が匿名のままになっている事態は、悲しいばかりだが)。
さて、最後に肝心の『ジョジョ』にも触れなければなるまい。これは荒木飛呂彦の今年で雑誌連載30周年を迎え、コミック本の累計発行部数は去年(2016年)で1億を突破したという、日本で6つ目の、コミック世代なら知らぬ人がいないほどの人気シリーズで、俗にバトルマンガと呼ばれるものの1つだ(因みに、他の5作品は『ワンピース』『ドラゴンボール』『こちら葛飾区亀有公園前派出所』『ナルト』『スラムダンク』)。本書のソデに引用された本文から、その単なるバトルマンガというジャンルを超えた魅力の一端を紹介しておこう。
『ジョジョ』の心臓として脈打つ奇妙な思想。それはおそらく次のようなものだろう。
――人間としての宿命的な弱点や病、狂気、無能力こそが、この私の人生にとって一番の強みになり、最大の潜在能力になっていくのかもしれない。
他者たちとの競争や能力主義的な戦いを基本的に肯定しながら、病・障害・狂気にはらまれた潜在的な「力」を解き放つことによって、未曽有の喜びに満ちた新しい世界を切り拓いていくこと。マンガとしての『ジョジョ』は、そうした革命的な倫理を私たちに教えてくれたのではなかったか。 (斜体は原文では傍点)
ここでは本作品のそうしたコンセプトを、「別次元の協働」や「平等の凄み」へ向かう眼差しとみて、敬意を込めて「ジョジョ論」ならぬ、相互的な「助助論」とでも呼んでおく。このコンセプトがマンガとしての『ジョジョ』に、いかにして実現されているのかということについては、本書に当たった後に、あらためてコミックで実感されると面白いと思う。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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