藤本寿彦 著
2017年10月12日
幸田文による語りがこれほど身体、ひいては自然に根ざしているものだとは今まで気づかなかった。そして、いわゆる日本近代文学を相対化する視点にこれほど充ち満ちているとは。
『幸田文――「台所育ち」というアイデンティティー』(藤本寿彦 著 田畑書店) 定価:本体3800円+税
本書は、幸田文作品を一つひとつ丁寧に読み込むことでその道程を明らかにするのみならず、日本の近代文学が置き去りにしてきたものは何かを考えさせる視点を提示する。
本書が示す幸田作品のオリジナリティを鮮明にし、「近代文学が置き去りにしてきたもの」に輪郭を与えるため、ここでは次の2点にポイントを絞った説明を試みたい。1つめは副題にも使われている「台所育ち」というセルフイメージ、2つめは身体と言葉との関係性だ。
幸田文の読者なら、「台所育ち」という言葉で彼女の世界が形容されることに違和感を持つ者は少ないはずだ。実際、暮らしや家事をめぐる随筆を多くものした作家であるし、『台所のおと』(講談社文庫)、『幸田文 台所帖』(平凡社)といったタイトルを持つ本も出ているのだから、「台所育ち」がキーワードとして浮上するのは当然だと感じるかもしれない。ところが、日本近代文学の構造(とでも呼べるものがあるとして)のなかで考えてみると、台所や家事、主婦であることをテーマとする作品は極めて少ないことがわかる。
それにはある程度頷ける理由もある。著者による指摘のごとく「幸田文の文学性が論議の対象外に置かれてきた背景には、石垣りんが述べているように、形而上的な哲学、思想を孕んだテクストに較べて、暮らしの文学表象が軽く扱われてきた批評状況がある」からだ。「漱石、鴎外を基軸とする近現代文学の成立と発展の系譜」からすれば、幸田作品は「こぼれ種」になるというわけだ。
著者はまた、平林たい子による手厳しい幸田文評価(既成の文学や社会制度に抗い続けた平林から見ると、父・露伴との親和性が大きい幸田文学は、いわばファザコン文学と規定される)が現今の近現代文学研究においても踏襲されている、と述べる。
しかし、著者による丹念な読み込みを経ることで、幸田文が主題とした家事労働は、平林ら多数の女性作家が抵抗した封建遺制――国家戦略である良妻賢母教育の結果推奨される家事労働――とは異質であることが判然とするのだ。
どういう点で異質かといえば、それは「徹底的に見えるものしか見ない肉眼」が捉えた家事労働であり、その労働が同時に「生きる知を体得する身体運動」になっていて、家族制度のもとで解釈される紋切型の「性役割としての家事」ではない、という点だ。2つめのポイントとも関わるが、「台所育ち」というセルフイメージは、彼女にとって常に「生きるための知」を身体で獲得する場、すなわち台所と自らの関係を見つめるなかで掴まれていったのだ。
「身体に蓄えられた知」が語られるテクスト群には、命や死、食べ物といった人間にとっての普遍的テーマが据えられるため、露伴の影響を逃れ得ない幸田文という特権的な固有名詞は意味を持たなくなる。しかも、身体がとらえた実感を描こうとする語りの戦略においては、学術的な専門用語や報道等に見られる情報分析的な言葉遣いではとうてい追いつかない、「モノと人間との生々しい出会い」を表現する文体が必要とされる。ここで必要とされ、かつ幸田文が実現した文体は、日本近代文学の自然主義リアリズムのような、対象(外部)と明確に区別された作家個人の内面や心理を特殊化する文体とは一線を画している。
まさに語り手の身体運動とともにあり、「一回性を生きる意味表象」となり得るダイナミックな文体であり、身体の深いところが言葉を生成していく過程を追体験できる文体だ。個別性を超え出たこの文体が、身体や自然に根ざした幸田文の語りについて教え、さらに自然災害・景観と家事労働とがひと続きの場所にあることを読者に実感させてもいる。そうしたことを直に確認するためにも、本書とともに、ぜひ後年の名作『木』(新潮文庫)や『崩れ』(講談社文庫)を(すでに読んだ人は再度)読まれることをお勧めしたい。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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