「親殺し」の意志の初めての、意識的発動
2017年10月23日
追悼・原節子 スクリーンに全てを賭けた真正の芸術家 [21]再び「子殺し」「親殺し」考『晩春』14
原節子が、佐竹熊太郎との見合いに応じることに「ええ」と答えてくれたことで、すっかり安心した叔母の杉村春子は、2階から降りてくると、待っていた笠智衆に嬉しそうに「行ってくれるって! 思った通り」と報告、「じゃ兄さん、あたし、おいとまするわ」、「これでもう、あたし、すっかり安心しちゃった。今晩からよく寝られるわ。日取りのことやなんか、いずれまた、あたし来ますからね。兄さんもついでにまた寄ってよ」と言って、土間に降り立ったところで振り返って、「やっぱり蟇口(がまぐち)ひろったの、よかったのよ」と、満面の笑顔で得意そうに蟇口の入っている懐の辺りを軽く叩く。
それに対して、笠智衆が驚いた風に目を丸くして「ああ、それ届けとくね」と、ユーモラスなやりとりがあったあと、「大丈夫よ、届けるわよ。じゃ閉めないで帰ります。さよなら」と言い残し、玄関の戸を開け、セカセカと帰っていく。
映画はこのように、杉村春子の軽妙な演技と笠智衆の多分にしゃちほこ張った演技のユーモラスなスパイスをきかせつつ、世間のどこにでもあるような世俗劇として、原節子の見合い話に決着がついたように思わせる。
だがしかし、玄関の鍵を閉め、杉村春子を見送ったあと、笠智衆が座敷に戻って、やれやれといった感じで、スクリーン右手前に腰を下ろし、座卓の上に置いた眼鏡を手に取ろうとするところで、原節子が2階から降りてきて、父親の視線を避けるようにして、スクリーン左上、奥の方で何か探し物をする。それを見て、笠が「叔母さん、いま帰ったよ」と声をかけ、それに対して、原が、いかにも気のなさそうに、「そう」と一言冷たく答え、ちゃぶ台のうえに置かれた茶碗を取ろうとする。そのとき、原が左の肩越しに夜叉のような険しい表情に「殺意」を込めたまなざしを笠に向けたことで、娘による「父殺し」という悲劇的主題が一気に現前してくる。
以下、相手の男が気に入って、結婚してもいいと思いながら、原節子が父親に対しては、それとは反対の火花が散るような激しい敵意と憎悪のまなざしを通して、「父殺し」の情念をぶつけてくるこのシーンを、スクリーンに沿って再現すると以下のようになる。
周吉 「叔母さん、いま帰ったよ」
紀子 (冷たく)「そう……」
周吉 「大へん喜んでたよ」
紀子「……」
周吉 「いいんだね、そう返事して……」
紀子 「……」
周吉 「だけど、お前、あきらめていくんじゃないだろうね?」
紀子 (冷たく)「ええ……」
周吉 「いやいや行くんじゃないんだね?」
紀子 「そうじゃないわ」
周吉 「そうかい、それならいいんだけどね……」
このシーンでまず注目されるのは、「叔母さん、いま帰ったよ」と声をかけられ、顔を笠の方に向け、肩越しに父親を見返す原節子の、ぞっとするような冷たく、殺意に満ちたまなざしの不気味なほどの鋭さであり、強さである。
おそらく、このショットでの原の「殺意」に満ちたまなざしの、まさに「氷の刃」といった鋭さと激越さは、彼女が映画のスクリーンのうえでみせたまなざしのなかで、最も冷酷残忍で、ワイルドな攻撃性に溢れたものであった。そして、そのまなざしから発せられる「敵意」と「殺意」に、笠智衆はおそらく、原節子が周囲からの圧力でいやいや結婚を承諾させられたと感じたのであろう、「いやいや行くんじゃないんだね」と念を押し、それを受けて原は、再びそっけなく「そうじゃないわ」と返し、そのまま2階に上がっていってしまう。
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