スティーブン・レ 著 大沢章子 訳
2017年10月27日
太りたくない。病気になりたくない。美味しいものを我慢しないで食べたい。そのためには何を食べたらいいのか――ということは、かれこれ40年近く、自分にとっての大きな関心事だ。
だけれど、牛乳は骨粗鬆症にいいとか悪いとか、肉は食べたほうがいいとか控えたほうがいいとか、ご飯もパンもとにかく糖質は良くないとか穀物はやっぱり必要とか、そういう対立する見解が、専門家によって「エビデンス」も添えて唱えられる、昨今の食と健康の世界。その混乱ぶりは、グローバリズムはいいとか悪いとか、財政赤字は深刻だとか問題じゃないとか、そういったこと以上に、私にとっては重大だ。
本書では、自然人類学者の著者が、世界各地をフィールドワークしながら、昆虫、肉、でんぷん、酒類、乳製品から水産養殖・遺伝子組み換え食物に至るまで、人間が食べてきたもの1億年の歴史をたどっている。
『食と健康の一億年史』(スティーブン・レ 著 大沢章子 訳 亜紀書房)
たとえば肉食についてはどうか。
250万~1万年前、農耕が始まる以前の狩猟採集民が食べていたのは、野生の動物と植物。だから、人間にとっては、たんぱく質と脂肪(=肉)がメインで炭水化物をとらない食生活こそがいいという見解がある。
たんぱく質や脂肪の過剰摂取は心臓疾患やガン発症のリスクを高めるなど、この見解には栄養学者からいろいろな批判がある。だが、肉食が体格を良くし、性的成熟を早め、気持ちを高揚させるという効果も確かにある。
人間が若いうちに性的に成熟し、多くの健康な子孫を残すのは、人類という種の保存には資することだ。また、個体レベルで見ても、若い間に、屈強な身体でテンション高く異性と積極的に交わって過ごすことは、健康で幸せな人生と言っていい。
要は、肉を積極的に食べるか控えるかという問題は、若い時代の健康と、若い間はこれらの摂取を控えて病気の発症をできるだけ遅らせて長生きする、年をとってからの健康との、どちらを選ぶのかという問題でもあるのだ。
この短期的な意味での健康と長期的な意味での健康の違いが見過ごされ、誤解されていることは、「はじめに」にある〈どの食品が健康に良いかについての健康の専門家たちの意見が大きく食い違っている理由〉の一つだと著者は指摘する。
このように人間が食べてきたものについての是々非々が、進化学、栄養学、生理学、遺伝子学などの論拠を示して論じられるのが本書の読みどころだ。
ときに話が専門的に込み入って難解なところもあるが、随所にはさまれる著者自身の食レポ(ムカデ! ドリアン!)が楽しく、読み進めるエンジンとなる。
そして読み終えて、じゃあ何を食べたらいいのかという、私の深刻な悩みは解決したのか?
それは解決したとも、しないとも言えない。人類の進化と適応の歴史、地域や民族による違い、人類史的に見てあまりに急速なここ数百年の食生活の変化、さらには個体差、それらを考えたら「何が良くて何が悪いのか」と白黒が簡単につくはずがない。それが本書全編に共通する結論だ。
もちろん著者は、そうやって読者を煙に巻いて本を終わらせているわけではない。巻末には、自身の渉猟の結論として「食べ方と生き方のルール」が9カ条、付されている。「伝統食を(祖先が食べていたものを)食べる」など、それらは穏当で説得的で現実的だ。
しかし、同時期に『炭水化物が人類を滅ぼす【最終解答編】――植物vs.ヒトの全人類史』(夏井睦、光文社新書)という本をつい手にしてしまい、ユネスコの世界遺産にもなった「和食」は、健康食でも日本の伝統食でもない、などという記述を目にすると、今度は「日本の伝統食って何?」という疑念が湧いてくる。
夏井氏の本も精読し、本書と照らし合わせ、自分で考え判断し……私が「何を食べたらいいのか」の深い迷宮から脱け出せる日はまだ遠そうだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください