ユージン・ローガン 著 白須英子 訳
2017年11月13日
オスマン帝国のことはあまり知らない。それが600年以上つづいた東地中海の大帝国であったことも、そう言われてみて、そうだったなと思い返すぐらいである。まして、その大帝国がどのように崩壊したのかについては、まったくといっていいほど知識がなかった。
『オスマン帝国の崩壊――中東における第一次世界大戦』(ユージン・ローガン 著 白須英子 訳 白水社)
本書のテーマは第一次世界大戦前後のオスマン帝国の崩壊過程だ。年代としては主に1908年から1923年までの15年が扱われている。このときトルコの歴史は大きく動いた。だが、現代も中東での紛争がつづいていることをみれば、オスマン帝国崩壊の影響は世界レベルにおよんだといってよい。
13世紀末に建国されたオスマン帝国は、次第に領土を拡大し、1453年にメフメト2世がコンスタンティノープル(現イスタンブル)を攻略、1529年にはスレイマン大帝がオーストリア・ウィーン城門にまで迫り、ヨーロッパのキリスト教世界を脅かした。17世紀末にはバルカン半島、アナトリア、黒海周辺、イラクからモロッコにいたる地域を支配する大帝国となった。
だが、それ以降、領土は徐々に縮小しはじめる。まず19世紀前半にギリシアが独立し、後半にルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立した。そのころイギリスはオスマン帝国からキプロスとエジプト、フランスはチュニジアを奪った。ロシアはアナトリアの3県をカフカスに組み入れた。
帝国の危機をまのあたりにしたオスマン軍の青年将校は「青年トルコ人」という団体を結成し、1908年にクーデターをおこす。その結果、スルタンのアブデュルハミト2世が退位し、立憲君主制のもと、帝国はかつてない戦乱の時代を迎えることになる。本書はここからスタートするわけだ。
「青年トルコ人革命」は、さまざまな波紋を投げかけた。帝国の混乱に乗じて、ブルガリアが独立を宣言、オーストリア(ハプスブルク帝国)はボスニアとヘルツェゴヴィナの併合を発表、そしてクレタ島がギリシアに統合される。1911年にはイタリアがオスマン帝国領リビアに侵攻した。
その後、2次にわたるバルカン戦争を経て、大宰相サイード・ハリムのもと、「青年トルコ人」のエンヴェル、タラート、ジェマルの3人がパシャ(大高官)となり、軍事・行政の実権を握り、これで政局は安定するかにみえた。
オスマン帝国にとって最大の脅威はロシアにちがいなかった。ロシアに対抗するため、帝国政府はドイツとの連携を強めた。しかし、1914年6月28日にボスニアのサラエヴォでオーストリア皇太子が暗殺されると、戦争がはじまる。ドイツと密接な関係をもつオスマン帝国はいやおうなく第一次世界大戦に巻きこまれていく。
第一次世界大戦というと、日本軍による青島攻撃などは別として、一般にヨーロッパでの戦争というイメージが強い。中東でも激しい戦争がくり広げられたことは忘れられがちである。中東での戦争は結果的に、中央同盟国側についたオスマン帝国を解体させる戦いとなった。
第一次世界大戦でオスマン帝国軍は、ヨーロッパの西部戦線や東部戦線で戦ったわけではなかった。イギリス、フランス、ロシアに四方八方から帝国領に侵攻され、よく堪えたものの、けっきょくは敗れ、解体に追いこまれたというのが実相だ。
オスマン帝国の参戦にドイツが期待したのは、エジプトや北アフリカ、さらには中央アジアやインドで、ムスリムのジハードが巻きおこり、ヨーロッパでの英仏露の動きを鈍らせることだった。だが、そう都合よくはいかなかった。いっぽうオスマン帝国自体は、ドイツの思わくとは別に、この戦争でエジプトとアナトリアの旧3県を奪還したいと考えていた。
5年にわたる戦争の推移は、本書を読んでいただくしかないが、ざっというと戦場になったのは、主にアナトリア東部とカフカス、現在のイラクにあたるメソポタミア、シナイ半島(その先のスエズ運河)、ダーダネルス海峡に面するガリポリ半島、メッカとメディナのあるヒジャーズ地方、そして現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンを含む大シリアである。ほぼ中東全域にわたるといってよい。
とりわけ注目すべきは、1915年4月から8カ月以上におよんだガリポリの戦い、そして「アラビアのロレンス」の活躍で知られる1916年夏からの「アラブの反乱」にちがいない。昔、デヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演の『アラビアのロレンス』を見て感動を覚えた方は、本書を読んで、T・E・ロレンスがどういう人物だったのかを確かめてみるのも一興だろう。
ガリポリの戦いでは、オスマン帝国が勝利して、首都イスタンブルを守り抜き、イギリスの海軍大臣ウィンストン・チャーチルを辞任に追いこんだ。この戦いで活躍したのがケマル・パシャ、すなわちのちにトルコ共和国初代大統領となるケマル・アタテュルクである。
いっぽう「アラブの反乱」では、ヒジャーズで立ちあがったハーシム家が、オスマン帝国からのアラブ独立をかけて戦い、イギリス軍と協力して、1917年12月に聖都エルサレムを奪った。これによりオスマン帝国による401年にわたるエルサレム支配が終わった。
オスマン帝国が連合国に降伏するのは、1918年11月のことである。前年に発生したボリシェヴィキによるロシア革命も、トルコの敗勢転換には寄与しなかった。だが、著者にいわせれば、オスマン帝国は敗北の大きさによってではなく、講和条件の結果によって滅びることになったという。連合国から出された講和条件はきわめて過酷なものだった。
帝国政府の3人の指導者、タラート、エンヴェル、ジェマルは、戦時中のアルメニア人虐殺の責任を問われ、死刑を宣告された。3人は敗戦前に逃亡したものの、アルメニア人によって暗殺されたり、ボリシェヴィキに殺害されたりして、哀れな末路をたどった。
講和条件により、オスマン帝国領はイスタンブルとアンカラ、アナトリアの一部地域に縮小されるはずだった。それに憤慨したケマル・パシャがギリシア軍やフランス軍、アルメニア軍と戦って、現在のほぼトルコ領の大きさにまで領土を回復させるのが1923年のことだ。このときスルタンは廃位され、600年にわたるオスマン帝国は滅び、現在のトルコ共和国が成立した。
1915年から翌年にかけ、イギリスはハーシム家とのあいだで、「フサイン=マクマホン書簡」を交わし、アラブ国の樹立を支援すると約束した。そのいっぽう1916年5月に、イギリスはフランスとのあいだで「サイクス=ピコ協定」を結び、シリア、メソポタミアにおけるそれぞれの支配領域を定めている。加えてイギリスは1917年11月に「バルフォア宣言」を発表し、ユダヤ人によるパレスチナでの郷土樹立を認めている。だれがみても、これら3つの約束ないし協定が相矛盾する内容を含んでいることは明らかだった。
第一次世界大戦の終結からすでに100年が経過しようとしているが、中東での混乱はいまもつづいている。
ハーシム家は大シリア圏とヒジャーズを合わせてアラブ王国を設立しようとした。だが、1919年11月にイギリスはフランスにシリアをゆだねて撤退したため、ハーシム家の野望はたちまちついえる。
イギリスはハーシム家の約束を反故にしたことを、いくらか後ろめたく思っていたようだ。そのため、ハーシム家のファイサルをイラク王に、アブドゥッラーをトランスヨルダンの統治者に任命した。
いっぽうヒジャーズを治めていた父親のフサインは、イギリスが資金援助するサウード家のイブン・サウードの勢力に押されて、亡命する羽目になった。こうして1932年にサウジアラビア王国が成立する。
フランスによってキリスト教国としてつくられたレバノンでは、やがてムスリム人口のほうが多くなり、内戦がつづくこととなった。シリアがいまも内戦状態にあることは周知のとおりだ。
パレスチナには「バルフォア宣言」にもとづいて、ユダヤ人が入植しはじめた。ユダヤ人とアラブ人の紛争は絶えることがなかった。1948年にイスラエルが建国されて以来、イスラエルとアラブ諸国のあいだには4つの大きな戦争が発生した。パレスチナ難民の問題はいまも残る。トルコ、イラン、イラク、シリアにちらばったクルド人は、自分たちの国をもつことができないままだ。
イラクではイギリスとの紛争、革命、イランとの戦争、サダム・フセインによるクウェート侵攻、その後の2次にわたる湾岸戦争、自称「イスラム国」の台頭による混乱と、平和と安定がつづいたためしがない。
オスマン帝国の崩壊と英仏による戦後処理は、希望以上に怒りと嘆きの種をばらまいた。歴史には出会いや別れ、喜びや悲しみ、愛着や憎悪といった感情がまとわりついている。その歴史を簡単に水に流すことはできないのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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