過激で繊細な暴力団映画
2017年11月08日
ゼロ年代に入ると、北野は力作『BROTHER』(01)、逸品『Dolls』(02)を撮り、エンターテインメントに徹した『座頭市』(03)をヒットさせたのち、『TAKESHIS'』(05)、『監督・ばんざい!』(07)、『アキレスと亀』(08)という、いわゆる「アート3部作」において、お笑いタレントや映画監督/芸術家としての自身への自己言及をモチーフにしたが、その混沌とした試行錯誤的な作風は、見る者を少なからず当惑させた。
2010年、「アート3部作」をめぐる鬱屈を吹っ切るかのように、北野武はドラスティック/過激なヤクザ映画、『アウトレイジ』を引っさげてカムバックし、私たちを驚嘆させたが、まったくもって、この映画における北野は、文字どおり水を得た魚のように自由闊達、かつハードで繊細な演出をやってみせたのだ(後述するように、北野は『アウトレイジ』において、自らの映画的ルーツであるバイオレンスものへの“原点回帰”を果たすと同時に、それらの過去作の作風とは異なる新機軸を打ち出した)。
そして2年後の続編『アウトレイジ ビヨンド』(2012、以下『ビヨンド』)も、今回取り上げるシリーズ完結編、『アウトレイジ 最終章』(以下『最終章』)も、第1作と甲乙つけがたい出来栄えの傑作となったが、では本シリーズの過激さ、斬新さとは何か。
それはひとことで言えば、ヤクザ映画という既成のジャンルをふまえながらも、本シリーズが、任侠映画的な親分子分の間の<情>――義理・義侠心・人情など――の要素を最小限に切り詰め、組織間の、あるいは組織のメンバー間で繰りひろげられる陰惨な裏切りや謀略による権力闘争、いわば裸形の組織暴力を、肌が粟立つような激しい残虐シーンや怒号・罵声の応酬をまじえて、すこぶる冷徹に描破した点にある。
要するに、高倉健や鶴田浩二らヒーローによる勧善懲悪劇であった任侠映画終焉後の、1970年代に人気を呼んだリアリズム・ヤクザ映画、『仁義なき戦い』に始まる「実録もの」(集団抗争劇)にすら残存していた義理人情やロマンチシズムが、『アウトレイジ』シリーズでは徹底的にそぎ落とされ、それに代わって、ただひたすら暴利をむさぼり、非道な暴力や権謀術数によって覇権争いに終始する<悪>――それは組織そのものの宿痾であると同時に、それに汚染された個々のメンバーのエゴ/業でもある――が、いわば極大化されて生々しく描かれるのだ。
もっとも、ビートたけし扮する昔気質のヤクザ・大友が、かろうじて義理人情を体現する定点的人物として登場するが、彼とて、観客の感情移入を誘いこそすれ、勧善懲悪や任侠道という価値観の積極的な担い手というより、不本意ながら組織の手足・道具として利用されつつ、自分の死に場所をたえず探し回っているような、死への欲動にとりつかれたニヒリストである。
ただし『ビヨンド』『最終章』で登場する、義理堅く融和的な張会長(金田時男)――寡黙だが圧倒的な存在感!――および彼のグループのメンバーらは、裏社会でアウトローな稼業に手を染めている点で完全な<善>ではないが、暴力団ではない点も含めて、花菱会その他の極道らの悪玉とは対照的に善玉の役を担う例外的な者らだ。
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