ルーツである土地の言葉=東北弁で語り続けるということ
2018年01月16日
女が単身で生きる。
人生でいつ始まってもおかしくないけれど(というか、わたしはずっとそうだけれど)、自分で持った家族という場所がなくなって(そしてこれをわたしは持っていないけれど)、でももうそんなに生きる時間が長くはないだろうというとき、小さな個人は自分を何者だと考え、どんな言葉で語るのだろう。
第54回文藝賞を受賞し(ちなみに歴代最年長、63歳での受賞)、第158回芥川賞候補作となった『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社)は、首都圏近郊の住宅地に住む74歳の独居老人、桃子さんが主人公。
東京オリンピックに沸く時代に上京し、専業主婦となって一男一女をもうけた。夫を亡くし、子どもたちが家族をつくって家を出て、16年を共にした老犬も死んでしまった。話し相手といえば桃子さんの体調を心配して電話をかけてくる娘ぐらい。
ひとりぼっちで老後を送る桃子さんは、心の内側に複数の自分の声を感知するようになって語り合うようになるが、「これはもしかしたら認知症の初期症状でねが」とあせりながらも、病院に行くということも特にせず、「小腸の柔毛突起」のように揺らぐその声に耳を傾けている。なぜなら、「それでも年齢からすれば、今がまとまってものを考える、絶好かつ最後のチャンスかもしれない」から。
社会的には何者ともされない桃子さんが、自分のルーツの言語・東北弁で思考をめぐらせ、人生を辿っていく。しかし、老境にあって自分について語っているのに、もっともらしい教訓や説教くささがない。上京・結婚・独居という平凡な人生の道筋を追っているにもかかわらず、どう転がるのか予測できないおもしろさがある。伸びやかなのだ。
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