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17歳。若いからお化粧はいけないと、止められているので、こうやってメーキャップの筆を持つ手もおぼつかない 1959年フジテレビで拡大17歳の時の二人=1959年、フジテレビで

「シャボン玉」とキャラクター

 ピーナッツが、60年代初頭の基本路線として選んだのは、洋楽のカヴァー・ソングだった。「可愛い花」に続く2枚目の「キサス・キサス」は、元はキューバの曲でナット・キング・コールの1958年のヒット曲。3枚目の「情熱の花」は、ベートーベンの「エリーゼのために」が原曲で、カテリーナ・ヴァレンテの持ち歌。4枚目の「乙女の祈り」もクラシックの楽曲をアレンジしたものである。5枚目の「悲しき16才」でようやくアメリカン・ポップスが登場するが(元歌はキャシー・リンデン)、その後に続いたのはミーナの「月影のナポリ」、再びカテリーナ・ヴァレンテの「パパはママにいかれてる」、そして1960年の締め括りとして、イタリアの曲「ルナ・ナポリターナ」がリリースされている。

 つまりピーナッツの初期は、カヴァー・ポップスの大流行期と重なっているものの、彼女たちがカヴァーした曲はアメリカのティーンズ・ポップス中心ではなかった。また、シングル盤のB面には、「チャッキリ・チャ・チャ・チャ」や「ばってん、ばってん、ばってん」のような日本民謡に基づく曲がある。1959年12月に「NHK歳末たすけ合い運動」の一環で作成され、同月の「歌の広場」で披露された「心の窓にともし灯を」のようなオリジナル曲(詞:横井弘、曲:中田喜直)もある。

 見た通り、歌の路線はいま一つ定まっていない。それでも宮川泰の編曲と姉妹の絶妙なハーモニーが、“多様な”楽曲群に統一感と独自性をもたらした。人気は高まるばかりだった。

 さらに1961年には、ピーナッツを文字通り世代を超えたアイドルに変える出来事が起きる。一つは、6月にスタートした日本テレビの『シャボン玉ホリデー』、もうひとつは7月に公開された東宝の『モスラ』である。

 『シャボン玉ホリデー』には、関係者や当時を知る論者によって多くの言説が残されている。それらを通覧したとみえる小林信彦は、「ザ・ピーナッツとクレイジー・キャッツを売り出す番組なのはすぐにわかったが、渡辺プロがテレビ界にバラエティ番組を定着させるための作戦とは気づかなかった」と書いている(小林『テレビの黄金時代』、2002)。小林は『シャボン玉ホリデー』を、担当ディレクターを同じくする『魅惑の宵』のつづきのように見ていたため、渡辺プロの「作戦」を読み解けなかったと釈明している。

 上記の担当ディレクター・秋元近史(あきもと・ちかし)は、井原高忠の下で『光子の窓』のノウハウを身につけた人物である。『シャボン玉ホリデー』に情熱を注ぎこんだ彼は、必然的に渡辺プロと強固な関係を築き上げた。井原が日本のテレビにバラエティを持ち込み、その弟子の秋元が60年代を代表するテレビバラエティをつくり出したのだが、それをビジネスとして定着させたのは渡辺プロの方だった(井原は著書『元祖テレビ屋大奮戦!』[1983]の中で、秋元を「渡辺プロ」と皮肉を交えて呼んでいる)。

東京へ出てきて3カ月1959年拡大東京へ出てきて3カ月のころ=1959年
 一方、『渡辺プロ40年史』は、その成功を5つのポイントから概説している。

 第1はバラエティ番組の成功によって、音楽とバラエティという二本柱を打ち立てたこと。第2はその結果として、渡辺プロのタレントが歌に加えて演技もできる“マルチタレント”へ鍛え直されたこと。第3はテレビが求めるタレントの鮮度を確保する中で、マネージャーもまた鍛えられたこと。第4は番組を通してユニークな才能と接触できたこと(構成作家では前田武彦や青島幸男など、編曲陣では宮川泰をはじめ森岡賢一郎、前田憲男など、テレビディレクターでは秋元を中心に斉藤太史(太郎)、小郷英武など枚挙に暇がない)。そして、第5は「シャボン玉」を通して、「ユニット制作の理念」が固まったことだという。

 小林信彦は、井原との交流もあり、ごく近い場所にいたから、さまざまな情報を耳にしていておかしくない。だから渡辺プロの目論見に「気づかなかった」というのは少々奇異ではある。ただ、あの小林にして見抜けないなら一般の視聴者には、制作サイドの主導権などに思い及ぶはずもない。実際人々は、この番組が醸し出す、文字通りシャボン玉のような「ロマンチックな夢」に浸るばかりだった。ピーナッツは番組のシンボルであり、輝かしいスターであり、コントもこなすコメディエンヌであり、テレビの中の妖精だった。

 バラエティ番組は、出演者に歌・ダンス・コントなどの多彩な芸を要求するばかりでなく、特定のキャラクターやイメージを求める。一方のクレイジー・キャッツが、強烈なキャラクターを発揮する個の集まりである以上、ピーナッツの方も何かを用意しなければならなかった。『ザ・ヒットパレード』はベストテン形式の歌番組だったから、彼女たちは双子の可憐なデュオとしてあまり無理をせず自然体で歌っていればよかったが、『シャボン玉ホリデー』の方はそうはいかない。何か工夫が必要だった。

 しかし、ことはそれほど簡単ではない。一番大きな困難は、一卵性双生児という彼女たちの属性に起因していた。ピンで立つタレントではなく、何もかもそっくりのペアを「双子」以上の言葉でキャラクタライズするのは実はむつかしい。今さら、伊藤エミ(日出代)・ユミ(月子)という二人の個に立ち戻って性格付けをしたら、矛盾を来してしまう。

 もっともさほど熱心な検討がなされたようにはみえない。解決策も比較的安直なもので、実体に基づくキャラクタライズではなく、関係の見立てですませようというものだった。

 彼女たちは、いつの間にかごく自然に、ハナ肇を「父」とする娘の役を演じるようになっていったのである。番組のシンボルイメージとなったのは、真ん中に立つハナと彼に寄り添うエミ・ユミの3人の姿である。エンディングで必ずこの「絵」を見せながら、ハナは彼女たちの容貌や気性や(後には)年齢をからかいながら、それでも不憫な娘を気遣う「父」の雰囲気を醸し出していた。

 年齢差では、伊藤姉妹に対しハナは10歳上の「兄」の格でしかない。それでも彼が発揮していた「父性」に説得力があったのは、当時の渡辺プロが晋・美佐を中心に据えたファミリーカルチャーをつくり出し、ハナがその中で“大番頭”として父性を代行する権利を有していたからだろう。またその自覚には、おそらくハナ自身のピュアな情愛も重なっていた。引退後も含め、終生彼女たちの身を気遣ったのはハナである。

 後に「お父っつあん、おかゆができたわよ」で人気を博したコントシリーズは、この擬制的な父娘関係をデフォルメしたものだ。視聴者はこのコントを繰り返し見ることによって、ピーナッツが「娘たち」であることを理解し納得した。

 ただし、良いことばかりでもなかった。「娘たち」のキャラクターに馴染んだ人々は、彼女たちについてそれ以上の関心を持とうとしなかったのだ。ピーナッツはついにピーナッツという「娘たち」のまま、その他の何かに変わることができなかった。これは彼女たちが背負い続けた宿命のようなものである。

ピーナッツはかわいい! ・・・ログインして読む
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筆者

菊地史彦

菊地史彦(きくち・ふみひこ) ケイズワーク代表取締役

1952年、東京生まれ。76年、慶應義塾大学文学部卒業。同年、筑摩書房入社。89年、同社を退社。編集工学研究所などを経て、99年、ケイズワークを設立。企業の組織・コミュニケーション課題などのコンサルティングを行なうとともに、戦後史を中心に、<社会意識>の変容を考察している。現在、株式会社ケイズワーク代表取締役。国際大学グローバル・コミュニケーションセンター客員研究員。著書に『「若者」の時代』(トランスビュー、2015)、『「幸せ」の戦後史』(トランスビュー、2013)など。

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