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やりたいことがあるなら動け―活を入れてくれた人

「カウンター・カルチャーの申し子」のようなECDから学んだこと

印南敦史 作家、書評家

彼の死をなかなか受け入れられなかった

在特会などの極右、排外デモへのカウンター行動。排外主義者のデモ隊へ機動隊に囲まれながら抗議するECDさん=2014年3月16日、東京・池袋(写真家・島崎ろでぃー撮影)

拡大在特会などの極右、排外デモへのカウンター行動。排外主義者のデモ隊へ機動隊に囲まれながら抗議するECDさん=2014年3月16日、東京・池袋(写真家・島崎ろでぃー撮影)

 「ECDさん逝去の知らせに衝撃。とうとうこの日が来てしまったか……。受けた影響の大きさは計り知れない。心からご冥福をお祈りいたします」

 僕がこうツイートしたのは、1月25日の朝9時19分だ。亡くなったのは前日の21時36分だったそうなので、約12時間後にその事実を知らされたことになる。そして数日後、まとめサイトに「【訃報】ECDさん、57歳で死去。」というスレッドが立った。

 困惑した。そのトップに、数日前の僕のツイートのスクリーンショットが掲載されていたからである。当たり前だが、ツイートしたのは石田さん(本名石田義則、以下、ECD)の訃報にショックを受けたからにすぎない。

 多くの人がそうであったように、彼がこの世からいなくなったという事実を、僕もなかなか受け入れられない状態にいた。だからツイッターには、そんな気持ちを素直に記しただけだ。

 でも、それをまとめサイトで見たくはなかった。考えすぎだと言われれば返す言葉もないのだが、それは望んでいたことではなかったのだから。そして結果的には、もやもやとした気分だけが残ることになってしまった。

〝きっかけ〟を与えてくれた人

 すでにさまざまな場所で語られているので、解説は最小限にとどめておくが、ECDは1980年代から活動を続けてきたラッパーである。80年代後期の日本においてはアンダーグラウンドなカルチャーでしかなかったヒップホップに、かなり早い段階から注目していた人物のひとりだ。

 ちなみに反原発、反レイシズムの活動に尽力していたことでも知られているが、ここでは彼が残した諸作品を軸として、僕との微妙な距離感について書いてみたい。ある意味において、ECDというラッパーがいなかったら、物書きとしての僕もいなかったかもしれないからだ。そう、彼は僕に〝きっかけ〟を与えてくれた人だった。

 ただし僕は、ECDを隣人のように語る資格は自分にないと考えている。たしかに〝知り合い〟ではあったけれども、〝友人〟ではなかったからだ。ささいなことと思われるかもしれないが、〝知り合い〟と〝友人〟との間には大きな溝があって、友人でない限り足を踏み入れてはいけない領域が絶対的にあると感じていた。少なくとも、彼との関係においては。

 なぜ、そんなつまらないことを僕は気にしてしまうのだろう?

 おそらくそれは、ECDとはそう感じさせるだけの動きを示してくれた人だったからだ。行動や言動のすべてがストレートでうそ偽りなかったからこそ、ある程度、いや、それ以上に親しくならない限り、偉そうに語るべきではないような気がしていたのだ。

 だから、ECDのツイッターにアップされた訃報に「葬儀へのご参列は、故人が生前お付き合いのあった方々を中心にお願いできればと存じます。」という一文を発見したときにも、自分のように中途半端な立場の人間がズカズカと足を踏み入れてはいけないような気がして、結局は行くことができなかった(このことについては、いまも激しく後悔している)。

 とはいえ、いつまでもこんなことばかり書いていてもらちが開かないから、話を進めることにしよう。

ECDが教えてくれたマインド

 ECDという名を初めて知ったのは、1980年代後半。ベスタクスというDJ機材メーカーが出していた、「DJ BIBLE」というフリーペーパー内の記事だったと記憶している。同社が主催した「オールジャパンオープンDJバトルコンテスト」で、彼が優勝したことが報じられていたのだ。

 そしてECDは89年に「CHECK YOUR MIKE」という、MC(ラッパー)を発掘するイベントを開始する。さらに翌年には、デビュー・シングル「Picocurie」(タイトルから想像がつくとおり、反原発ソングだった)をリリース。明らかに、アンダーグラウンドで知名度を上げていきつつあった。僕もそうした活動に興味を持ち、離れた距離から見ていた。

 どうして「離れた距離から」だったのかといえば、当時の僕は、ヒップホップ・カルチャーに関心を持っているただのリスナーでしかなかったからだ。近づく手段などいくらでもあっただろうといまなら思うが、当時はそんなこと考えたこともなかった。

背中を2度押してくれた

 しかしそののち、ちょっとした転機が訪れた。はからずもECDから、2度にわたって間接的に背中を押されることになったのだった。

 まず最初は、スチャダラパーの1991年作『タワーリングナンセンス』中の「ROCK! ロック雑誌」という楽曲によって。この曲にゲスト参加したECDは、「誰もがうんと言えるような無難なことしか書かないライターが不甲斐ない」と、音楽ジャーナリズムを痛烈に批判していたのだ。

 それは、「本気で目指しているものがあるなら、ハンパなことはやるべきじゃねーぞ」というマインドを僕の内部に深く根づかせた。

 そして2度目は、1992年にリリースされた彼のファースト・アルバム『ECD』内の「アタックNo. 1」を耳にしたときのこと。これは「ECDの名曲」みたいなランキングにはまず登場しないであろう、あまり知られていない地味なタイプの曲だ。おそらく、知らない人のほうが多いのではないかと思う。が、僕にはとても響いたのだ。

 そこでECDは、やりたいことがあるならアタックしろと訴えていた。「せっかく生まれてきたのに、ちょっとの恥かくことを怖がってちゃいけない」と。「誰も見てないし聞いてないんだし、深く考えすぎだ」と。そして、「一花咲かせてでっかく散ろうぜ」と。

 実はこの2曲を知ったころ、僕は「音楽ライターになりたいんだけど……」と、ウジウジ思い悩んでいた。なりたいけれど、そのための方法がわからなかったし、なったらなったで、やっていけるのかも不安だったのだ。

 ECDは、そんな僕に活を入れてくれた。たしかに、やりたいことがあるなら動くしかないのだ。なのに自分は考えすぎて、頭のなかだけで気持ちを整理しようとしていたのかもしれなかった。でも、動けばいいだけだったのだ。その証拠に、意を決して動いてみたら、いつの間にか複数の音楽雑誌で書けるようになっていた。

 つまり「アタックNo. 1」は、自分にとっての出発点になったのだ。ラップのリリック(歌詞)から直接的な影響を受けた、最初の体験だった。そしてライターになってからは、「ROCK! ロック雑誌」から学んだことも大切にしていこうと考えていた。

音楽、芸術はまともな人生を踏み外すためにある

 ライターになってすぐ、そのことを伝えようと、実際に会いに行ったことがある。 ・・・続きを読む
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筆者

印南敦史

印南敦史(いんなみ・あつし) 作家、書評家

1962年東京生まれ。広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、音楽雑誌の編集長を経て独立。「ダ・ヴィンチ」「ライフハッカー(日本版)」「東洋経済オンライン」「ニューズウィーク日本版」「サライ.JP」「WANI BOOKOUT」など、紙からウェブまで多くのメディアに寄稿。著書に『遅読家のための読書術 情報洪水でも疲れない「フローリーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『世界一やさしい読書習慣定着メソッド』(大和書房)ほか多数。新刊は『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)

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