“女の園”の戦慄的な愛憎劇
2018年03月22日
期待薄で見た『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』の、予想を大きく上回る出来ばえに、いたく感服した。描かれるのは、南北戦争末期の南部の女子寄宿学園にかくまわれた1人の北軍負傷兵をめぐる愛憎劇で、本格的なスリラー仕立てのジャンル映画だ。しかし、前述のごとく私は、ソフィア・コッポラ監督――「巨匠」フランシス・フォード・コッポラの愛娘――の長編6作目にあたる本作を、あまり期待せずに見たのだが、その理由は二つあった。
まず、『ロスト・イン・トランスレーション』(2003、2作目)という傑作を撮ってしまったソフィア・コッポラは、もうこれを超える映画は撮れないのでは、との思いがあった。実際、2人のアメリカ人男女が異国/日本で味わう不安や寄る辺なさや違和感、あるいは2人のあいだに芽生える淡い恋愛感情を、超絶なカメラワークによって日本人観客の目にも半ば見知らぬ都市であるかに映る――異邦人の視線によって異化された――東京を主舞台にして、柔らかな光と色感とともに淡々と描く『ロスト』前後のソフィア作品は、冗長だったり散漫だったり、ファッションへの目配りが過剰だったりで、いまひとつピンとこなかった。だから私は、『ロスト』はしょせん、ソフィアの“フロック/まぐれ当り”ではないかと、勝手に思いこんでいたのだ。
『ビガイルド』への期待を自粛した二つめの理由は、本作が、ドン〔ドナルド〕・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演の『白い肌の異常な夜』(1971、原題はやはり「The Beguiled」)の再映画化である点だった。つまり、誰がメガホンを取ろうとそのリメイク版、ないしはリブート(再起動)版は、ドン・シーゲルのあの強烈な傑作には到底およぶまいと、タカをくくっていたのだ(ドン・シーゲル版については順を追って触れる)。
ともあれ、『ビガイルド』を見て予想を快く裏切られた今、私はおのれの不明を恥じるほかないが、以下では、本作の優雅で戦慄的な魅力について語ってみたい(ドン・シーゲル版同様、本作はトーマス・カリナンが1966年に発表した同名小説<The Beguiled:〔邦訳タイトル『ビガイルド 欲望のめざめ』、青柳伸子・訳、作品社、2017〕>を、原作に仰いでいる)。なお、以下ネタバレあり。
――くだんの女子学園の生徒の一人、エイミー(ウーナ・ローレンス、10代半ば)が、キノコ採りに出かけた森の中で脚を負傷した北軍兵士マクバニー(コリン・ファレル)を発見し、学園へ連れ帰る。バージニア州の草深い僻地に建てられた、世間から隔絶したような荘厳な造りの男子禁制の女子学園には、エイミーやアリシア(エル・ファニング、ハイティーン)ら5人の生徒と、教師のエドウィナ(キルスティン・ダンスト、30代半ば)、園長のマーサ(ニコール・キッドマン、40代後半)が自給自足の生活を送っていた。7人はキリスト教の慈愛の精神に従い、敵兵であるマクバニーの手当をし、回復するまで学園に住まわせることにする。
ここまでが『ビガイルド』の、いわばシチュエーションの初期設定だが、これだけでもう、何か隠微なドラマの開始を予感させる巧みなセッティングだ。そして案の定、女たちは、ハンサムで紳士然としたマクバニーに魅了されていく。
いきおい、物語の核をなすのは、キリスト教精神やら淑女らしさやらのヴェールの下から、彼女らの異性に対する抑圧された性的欲望が次第に表面化していくところだ。
それにしても、女たちの欲望の表出を、彼女ら一人ひとりの性格に即して細心に描き分けていくソフィア・コッポラの手つきには、舌を巻くばかりだ(<見せること>と<隠すこと>の絶妙なさじ加減)。たとえばマクバニーに対し、早熟なアリシア/エル・ファニングはいち早く思わせぶりな色目を使い、誘惑を開始。見るからに生真面目そうな奥手の教師、エドウィナ/キルスティン・ダンスト――彼女こそ事実上のヒロイン――は、ブローチをつけて身を飾り、まだ幼いマリー(アディソン・リーケ)さえもが負けじとエドウィナの真珠のイヤリングをつける始末だが、色めく彼女らをたしなめる、貞淑さの化身のような園長のマーサ/ニコール・キッドマン自身も、久しぶりに触れた生身の男の肉体に対して心穏やかではいられない(マーサもマクバニーを意識して首元にリボンで飾る)……。
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