ソフィア・コッポラの“東京物語”
2018年04月18日
今回は、2018/3/22、同/27、同/28で論じた『ビガイルド 欲望のめざめ』のソフィア・コッポラ監督の長編第3作目であり代表作である、『ロスト・イン・トランスレーション』(2003)を論評したいが、彼女の出世作である本作を偏愛する映画ファンは少なくない。私自身も、東京を主舞台にして2人のアメリカ人男女の淡い交情を描くこの傑作は、何度見ても見飽きることがないが、なにより目を奪われるのは、カメラの撮りおさえた、ゼロ年代初頭の東京のドキュメンタルな景観や、日本人および外国人旅行者らの、いくぶん滑稽化された(ときに醜悪化された)姿である。
だがそれにしても、私たちが見慣れているはずの、渋谷や新宿の街路や日本人の立ち居振る舞いが、なぜこれほどまでに、目を見張るようなリアルさで迫ってくるのか。なぜ昨今の邦画では、こうしたドキュメント感あふれる東京や日本人の映像に出会うことが少ないのか……。
さらにいえば、それらは、いわばソフィアの分身たる2人のアメリカ人、中年のハリウッド・スターのボブ(ビル・マーレイ)と若い人妻シャーロット(スカーレット・ヨハンソン)の視線がとらえたもの、として描かれる。
それゆえ、この映画が描く東京や日本人は、われわれ日本人の目にも、異邦人によって<異化>された東京や日本人の映像として――つまり見慣れているはずなのに半ば未知の被写体であるかのように――、映るのである。いってみれば、われわれはボブとシャーロットに感情移入して、つまり彼らの視点に同一化して、見知っているはずの東京や日本人を<異物>として眺めるわけだ。そしてその点にこそ、『ロスト・イン・トランスレーション』というフィルムの独創性があるのだが、ドラマチックな出来事はほとんど何も起こらない本作のプロットを、ざっと記しておこう(「lost in translation」というタイトルは、<中>でも触れるように、アメリカの詩人ロバート・フロストによる詩の定義から着想されたものである)。
――ハリウッドの大物俳優、ボブ・ハリス/ビル・マーレイは、サントリーウィスキーのテレビCMに出演するために来日しているが、言葉が通じず、ちょっとばかり鬱屈した日々を過ごしている。ボブはまた、アメリカに残してきた結婚25年目の妻とも倦怠期にある“ミドルエイジ・クライシス(中年期の危機)”にさしかかった男でもある(アンニュイですっとぼけた感じのビル・マーレイが、ジム・ジャームッシュ『ブロークン・フラワーズ』(2005)ではやや紋切型に流れてしまった“疲れた中年男”の役を、本作では過不足なく好演)。
ボブと同じホテル(西新宿のパークハイアット東京)に泊まっているシャーロット/スカーレット・ヨハンソンは、大学を出たての結婚2年目の若妻だったが、仕事に追われる写真家の夫ジョン(ジョバンニ・リビシ)は、シャーロットを気遣う余裕がなく、よって彼女もまた少しばかり孤独を感じている。……と、こう書くとあまりにも出来すぎた図式的なシチュエーションにも思えるが、この映画がそうした図式性を払拭しえているのは、ひとえにソフィアの卓抜な映画センスのなせる業だ。
そもそも物語を要約しただけでは、この作品はありきたりな滞日中の西欧人の、言葉の障壁ゆえの孤独感、疎外感、あるいはカルチャー・ギャップを描いただけの映画に思われかねないが、一つひとつの細部が秀逸に演出されているので、けっしてそういうステレオタイプには流れていない。
さてそんなある夜、長時間のCM撮影ののち、ホテルのバーで疲れを癒していた憂い顔のボブは、シャーロットと偶然出会う(そこでの二人の視線の交わりが何ともデリケートに描かれる)。そして二人は、ホテル内で顔を合わせるうちに親しくなっていき、連れ立って代官山の寿司屋や渋谷・猿楽町のクラブAIR<2015年に閉店>や、都内某所のしゃぶしゃぶ店やストリップ・クラブなどに行く。やがて、ボブとシャーロットのあいだには淡い恋愛感情が生まれるが、ラストで彼は彼女に別れを告げ、帰国の途につく(なお本作のキャッチコピーは、「ひとときの恋心、永遠の思い出。トーキョーであなたに会えてよかった。」(!)である――)。
しかし前述のように、『ロスト・イン・トランスレーション』の主人公は、俳優たちよりもむしろ、渋谷や新宿といった都市(の猥雑な現実ではなくイメージ/上澄み/表層)である。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください