脱構築された東京のイメージ
2018年04月23日
『ロスト・イン・トランスレーション』再見(上)――ソフィア・コッポラの“東京物語”
(上)で触れたように、『ロスト・イン・トランスレーション』で映し出される東京はきわめて魅力的だが、その最大の理由は、東京という都市の、どこをどう切り取るかについて、ソフィア・コッポラが非常に感度の良いセンサーをそなえているからだ。
その点で思い出される外国人監督の映画は、台湾の名匠、ホウ・シャオシェンが東京の神保町や高円寺などでロケをおこなった傑作、『珈琲時光』(コーヒーじこう:2004)だが、小津安二郎生誕100年を記念し『東京物語』(1953)へのオマージュとして製作されたこの作品については、2014/09/12の本欄参照。さらに本作の東京ロケが連想させるのは、オムニバス映画『TOKYO!』(2008)のレオス・カラックス篇、『メルド』の舞台となった東京だが、この傑作中編では、ドゥニ・ラヴァン扮する「マンホールの怪人」が渋谷で手榴弾による凄惨なテロを起こしたり、銀座で通行人に狼藉を働いたりする。
ところで、映画研究者の伊藤弘了(いとう・ひろのり)は、『ロスト・イン・トランスレーション』に詰め込まれた、外国人旅行者が日本的だと考える紋切型/ステレオタイプを、肯定的にとらえ、こう述べる――「〔『ロスト・イン・トランスレーション』における日本の描き方は〕紋切型の日本のイメージを覆さないどころか、ステレオタイプな日本観を誇張して再生産してさえいる。しかしながら、映画の目的は観客に正しい日本理解を促すことにあるのではなく、種々の日本的モティーフは、あくまで登場人物が異文化に囲まれていることを示す記号として、意図的に散りばめられていると見るべきである。詩人ロバート・フロストが喝破したように、詩とは「翻訳によって失われる何か(lost in translation)」に違いないが、核心を失った残滓(ざんし)であるがゆえに達することのできる境地もあるのだろう。その限りで、ソフィア・コッポラの試みは大きな成功を収めているように思われる」(「ソフィア・コッポラ主要作品解題」、『ユリイカ/ソフィア・コッポラ特集号』<2018年3月>所収、190頁)。
伊藤のこの的確な指摘を敷衍(ふえん)すれば、言葉によって意思疎通を図ろうとする人と人は、互いの言葉を誤訳し、あるいは訳し落とし、あるいは誤解し、もしくは忖度(そんたく)し間違え、場合によっては、言いすぎたり言い足りなかったりして、ディスコミュニケーションにおちいるが、にもかかわらず、それによって見えてくる意外な何か(残滓)があるはずだ、となろう。
これもしばしば、われわれが日常にあって様々なかたちで経験していることがらだろう。また、『ロスト・イン・トランスレーション』に描かれた日本の風物は、外国人の目を通して<異化>されたものであるゆえ、
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