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中絶や避妊、性交を扱う性教育は「不適切」か

教育内容への政治的介入は許されない

田代美江子 埼玉大学教育学部教授

 また、ある学校とそこの教師が名指しされ、性教育への攻撃がなされた。「また」というのは、2003年、七生養護学校(当時)で研究され積み重ねられてきた「こころとからだの学習」が、一部の都議によって「過激性教育」だと問題視され、東京都教育委員会から指導を受け、教材が没収され、子どもたちのためにつくりあげられてきた教育が破壊された事件を思い返すからだ。

「性交渉『高校生になればOK?』」などと報じた産経新聞の記事=2018年4月23日付
 その攻撃をおこない、その後の裁判で断罪された古賀俊昭都議がまた、3月16日に開かれた東京都議会文教委員会で、中学校で実践されていた性教育の授業を「不適切な性教育の指導がなされている」と問題にした。

 都教委もまた「発達段階に合わない内容」なので「指導する」との回答をしたという。

 そして、この論考の校了寸前に、七生養護学校事件でメディアとして教育への不当な政治的介入に加担した産経新聞がまた、「性交渉『高校生になればOK?』」といった見出しで、あたかも「不適切」な性教育が実践されたかのような印象操作をする記事を出している(4月23日付)。これでまた同じ雁首が並んだ形になった。

 それにしても、なぜ、同じことが繰り返されるのだろうか。この3者が、あの裁判で何も学んでいないというのは確かなことだが、問題はこの3者だけの問題ではなく、実は日本の教育の本質に関わる問題でもある。

教育行政の「逸脱」

 今回もそうだが、特定の教育への攻撃がなされるとき、たいていの場合、その実践がどのようなものであったか、その是非を議論しようとする。しかしその前に確認しなければならないことがある。

 その一つは、今回のように、党派性をもつ一人の政治家が、議会という場で、特定の学校、教員を名指しして「不適切」と発言すること自体、教育内容への政治的介入であり、許されないということ。もう一つは、教育委員会が授業案の提出を求めてその実践内容を「指導」することもまた、教育行政の役割からの逸脱だということである。なぜなら、教育行政機関である教育委員会の役割は、教育を支配・統制することではなく、教育の自律性を尊重しつつ、教育がその目的を達成できるように支援することだからである。

 いうまでもなく、憲法23条(学問の自由)、旧教育基本法10条(新16条、教育行政)を基盤とし、教育は教育当事者である教員、子ども、青年、親たちが自主的・自律的におこなうべきものだとされており、教育課程編成も各学校にゆだねられている。こうした前提は、誰もが何らかの形で教育に関わるのだから、すべての市民にとっての当然の「常識」でなければならない。しかし残念ながら、教育という営みに関わる現場の教員も、そして教育行政に関わる者もほとんど認識できていない。

 七生養護学校の性教育がバッシングにさらされたとき、私が最も深刻な問題だととらえていたことは「なぜこんなバッシングがまかり通るのか?」ということであった。今回はそう簡単には「まかり通って」いないようにも見える。しかし、上述したそもそもの「常識」が前提にされているようにも見えない。だとすれば、産経新聞のような報道の仕方で「過激性教育」というフェイクニュースが先行すれば、人々が簡単に煽られ、「やり過ぎだよね」となる可能性は今もある。今の日本は、教育内容への政治的介入が容易になされてしまうという深刻な状況にあるということだ。

子どもの実態よりも学習指導要領優先の都教委

 こうした前提から言えば、「中絶」「避妊」「性交」を扱うことが、「学習指導要領からの逸脱」とか「発達段階に合わない」といった古賀都議や都教委の批判に応える必要は本来ないのだが、次の点だけは指摘しておきたい。

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