2018年05月08日
3枚目のシングル盤でカテリーナ・ヴァレンテの持ち歌「情熱の花」を歌ったことが縁で、渡辺プロは1963年に、カテリーナを招聘、ピーナッツは初来日したこの世界的歌手と親交を持つことになった。公演旅行の中、1日を京都の休日にあてたヴァレンテ夫妻を、舞妓の格好をしたエミとユミが案内役をつとめたのである。
さらにこの年9月、美佐はピーナッツを連れてヨーロッパへ向かった。彼女の狙いはピーナッツの海外デビューである。再開したカテリーナと首尾よく話がまとまり、12月にはウィーンで「カテリーナ・ヴァレンテ・ショー」に出演した。
このとき、ピーナッツが歌った曲の中には、「東京たそがれ」も含まれていた。「ウナ・セラ・ディ東京」と改題され、多くのカヴァー曲を生み出したこの作品は、ヨーロッパではカテリーナをはじめ、ミルバ、カーメン・キャバレロの歌や演奏で広まった。
1964年には、西ドイツのババリアプロが制作する90分のテレビ番組「ショー・ビジネス・イン・ジャパン」から声がかかり、1カ月に及ぶミュンヘン滞在となった。10月3日に全ヨーロッパへ放送されると反響は大きく、いくつかの出演申し込みが舞い込んだ。東洋の双生児の姿と声は、彼の地でも並々ならぬ波及力を示したのである。
この時期、渡辺プロは、本気で海外進出に乗り出そうとしていたもようである。カヴァー・ポップスが下火になる中で、坂本九の「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」の曲名で全米のヒットチャートを登りつめたこともきっかけになっただろう。
日本の歌手とオリジナル曲を世界へ向かって放つ――。自ら手塩にかけたピーナッツを措いて、その任務にふさわしい歌手はいなかった。『渡辺プロ40年史』によれば、美佐と宮川は、ピーナッツが海外で歌える曲を密かに準備していた。「東京たそがれ」はそうした作品のひとつだったらしい。岩谷の気転で稀代の傑作となった「ウナ・セラ・ディ東京」をめぐるもう一つのエピソードである。
1966年4月、ピーナッツは「エド・サリバン・ショー」出演のため、渡米した。事前の出演契約交渉、ユニオンとの調整などを経て現地入りしたら、オーディション合格が出演条件と聞かされて当惑する。どうやらパスして1曲目の「ラバー・カム・バック・トゥ・ミー」のリハーサルを終えて休憩に入ったところで、居合わせた鹿内春雄(当時、ボストン大学留学中)が誤ってエミに熱いコーヒーをかけるという事故が起きた。応急手当の間に所定のリハーサル時間を過ぎてしまい、2曲目の「オーケー、オーライト、ユー・ウイン」は、録画したもののリハーサルなしは無効という規定によって放映されなかった。
それでも同年9月には、同じCBSの「ダニー・ケイ・ショー」に出演すべく再渡米。リハーサルを含め3回の出演をこなすために、滞在は1カ月にわたり、厳しいレッスンに明け暮れる毎日だったという。3回目の出番では日本の歌を歌ってほしいという先方の要請に対し、アメリカでよく知られた「スキヤキ」を選んだ。ダニーは喜んだが、エミとユミは複雑な気持ちだった。これは自分たちの持ち歌ではない。道はまだ遠いと感じたのだ。
海外の仕事がピーナッツを大いに鍛えたことは確かだろう。この後2人は、折につけ欧米のショービジネスの厳しさを語っている。ただし、労苦の割にもたらされたものは(特に渡辺プロにとっては)さほど大きくなかったらしい。67年4月のソ連訪問、6月の「カテリーナ・ヴァレンテ・ショー」への再出演などを最後に海外渡航はほぼ途絶えた。1963年から67年までの5年間、欧米を駆け回ったピーナッツは少し疲れ始めていた。
海外を忙しく飛び回っていた期間、ピーナッツはあまりヒット曲に恵まれなかった。1965年には、ドイツ人の作曲家、ハインツ・キースリングの曲が何曲か吹き込まれているものの、「ふりむかないで」で始まり、「恋のバカンス」を経て「ウナ・セラ・ディ東京」を聴いてしまった日本のファンからすれば、どうにも物足りない代物だった(ほとんどの日本人は曲の存在さえ知らなかったが)。
今聞き直しても、ドイツ生まれの「スーヴェニール東京」や「ハッピー・ヨコハマ」は時代遅れの東洋趣味(オリエンタリズム)としかみえない。ピーナッツがこの程度のものに心身をすり減らしてかかわっていたこと自体が奇異に思えるほどだ。
岩谷・宮川コンビも不発だった。65年にこの二人の作品はない。66年の5月になってようやく、「愛は永遠に」がリリースされたものの、印象に残るメロディラインに乏しく、エミとユミのやや粘っこいコーラスが思わせぶりでさらに曲をつまらなくしている。異名同曲の「あの空の向こうには」がお蔵入りになりかかり、歌詞も差し替えて吹き込まれた経緯をみても、チームの中で何かが食い違い、熱量が減衰していた可能性はある。
「あの空の向こうには」と同時期に吹き込まれ、未発表に終わった「愛のかけはし」という曲もある。これらの岩谷・宮川作品は2000年代にCDで蘇った。聴いて愕然としたわけではないが、悄然としたのは確かだ。なぜ、65年以後75年の引退まで、岩谷・宮川のヒットが生まれなかったのか、理由はともかく、その「実態」はうかがえるからだ。
1968年の「たった一度の夢」が、岩谷・宮川コンビで発表された最後の曲である。荘重な管弦楽の演奏に乗せて、男女の交合の場面を歌っている。岩谷の詞は隠喩をちりばめた分切れが悪く、それを歌うピーナッツにも“精一杯”の感がある。性愛の上昇感を表そうとしているのだろうが、宮川のメロディはどこか重怠くしかも通俗的である。この曲も人々の記憶に残ることはなかった。こうして、実質的にピーナッツと岩谷・宮川のチームは活動を終えていく。
1970年9月、「宮川泰リサイタル」で録音された「昨日の恋」が、今のところは彼らが残した最後の音源であるらしい。この作品も、アポロンの8トラック・テープで販売されただけでついにレコード化されることがなかった。ライブ録音を聴く限り、歌唱のレベルは高くない。それでも曲自体には、何かを吹っ切った爽やかさと華やかさがある。「ごめんなさい 新しい恋をしているの」というサビは、振り返ることをやめ、もう一度前を向いて歩いていく女性の表情を伝えているようだ。ひょっとしたら、と私は夢想する。この歌は岩谷と宮川にとって、8年後の「ふりむかないで」だったのかもしれない、と。
しかし、回り舞台はもう次の景色を見せていた。ピーナッツの第二の黄金期は、まさに岩谷・宮川コンビの曲づくりが停滞する中で始まった。
1967年8月にリリースされた「恋のフーガ」がその皮切りになった。作詞はなかにし礼、作曲はすぎやまこういち。なかにしは、同年2月の「恋のハレルヤ」(黛ジュン)で注目を集めた新進、一方のすぎやまは、『ザ・ヒットパレード』以来、テレビの側からピーナッツを育て上げた一人である。
「恋のフーガ」について、なかにしはまず「フーガ」(原義は遁走)というコンセプトが曲づくりの起点になったと語っている(『SWITCHインタビュー達人達』2017年8月12日放送)。主唱と応唱が決して交わらずかつ響き合って持続するというかたちに「恋」の本質を見出し、しかも「主」と「応」をピーナッツの二人に割り振ることを思いついたという。その後、なかにしはピーナッツの曲づくりにかなり積極的にかかわった。ただ彼のピーナッツに対する関与は、岩谷や宮川とは少し異なっていたように感じる。
シャンソンを中心に約1000曲の訳詞を書いていたなかにしは、「歌謡曲を書くなら当てないことには意味がない」(なかにし『歌謡曲から「昭和」を読む』、2011)と考えた。改名して再デビューした黛ジュンの「恋のハレルヤ」(曲:鈴木邦彦)は、ビートポップな歌謡曲として大きな注目を集めた。翌年、同じコンビがつくった黛の「天使の誘惑」は大ヒットとなり、第10回日本レコード大賞を受賞した。
ヒットメーカーへの道を爆走し始めたなかにしは、デビュー8年目の、その成熟ゆえに失速しかかっていたピーナッツにいわばカンフル剤を打とうと考えたのではないか。
その“カンフル剤”の処方はどのようなものだったのか?
追いかけて 追いかけて
すがりつきたいの
あの人が消えてゆく 雨の曲り角
幸せも 想い出も
水に流したの
小窓打つ雨の音 ほほぬらす涙(「恋のフーガ」)
冒頭のユニゾンで歌われる主題は、「逃げる/追う」というコンセプトをそのまま表出している。追っても追っても、相手は背中を見せたまま、曲がり角を折れて姿を消していく。この雨中のイメージが曲全体を支配し、指輪やガラス窓などの小道具がさりげなくあしらわれている。編曲担当の宮川のアイデアによるティンパニーが、追跡と逃亡の緊張感をうまく醸し出している。
この曲をピーナッツの代表曲のひとつとして挙げる人は多いが、私は当時からつまらない曲だと感じていた。でもその「つまらなさ」こそ、なかにしの戦略であり、ピーナッツ復活の処方だったことは、だいぶ後になって分かったことだ。
第一に、岩谷の詞にあった「含み」や両義性が消えた。なかにしの詞の言葉はフラットで一義的である。どのようにも取れる曖昧さを取り去ることで、言葉は明快になり、従来にないスピード感を得た。
第二は、情感の排斥とでもいったらいいだろうか。歌詞の意味に寄り添って、気を入れて歌うのではなく、むしろ突き放し距離を取って歌わせるようになった。その結果、ダイナミズムが生まれ、劇的な効果が増した。
ただしここには、彼女たち自身が感じていた“歌唱力の不足”という事情があったのかもしれない。1968年の暮れに行われた遠藤周作との対談は、その事情に触れている。珍しく二人の愚痴に近い発言が収録されているが、そのひとつはデビュー以来の3回の「マンネリ」に関するものである。
エミ 一回目のマンネリは踊りで乗越えて、二回目が外国行き。三回目が今です。
周作 演歌とエレキ攻勢でしょぼんできたわけだな。
エミ ええ。どうしていいか、わからないみたい。
(中略)
周作 それでグループ・サウンズに対する作戦は、積極的には何を考えとる?
エミ オリジナルしかないです。たしかに歌謡曲がヘタなんですよ。
ユミ うたえないんです。うたってもソッケないし、味がない。歌謡曲って、色気がなくちゃ……。(「周作怠談」第11回、『週刊朝日』1969年1月7日)
この不安は、彼女たちの脳裏をしばらく離れなかったものらしい。背景にあるのは、おそらく60年代後半の大“艶歌”ブームである。美空ひばりと古賀政男の「悲しい酒」(1966)を起点とする日本調歌謡曲の復古現象は、往年の歌手と作家を活性化し、さらに森進一・藤圭子・水前寺清子など新進の艶歌歌手によって拡大していった。この流れの中で、ピーナッツのモダンな和製ポップスは取り残されていた。
なかにしは、このあたりの事情を知っていたから、ピーナッツに情感を込めて歌うことをやめさせた。むしろ彼女たちの歌唱を、もっとドライでビートのあるものに変えていこうとした。彼は、ピーナッツの高度な歌唱技術を最大化するような歌づくりへ舵を切った。そしてその方策は功を奏したのである。
初めから 結ばれない
約束の あなたと私
「恋のフーガ」のサビでは、文字通りの「追いかけ合い」をやってみせたが、従来のピーナッツのハーモニーとは異なるダイナミックな音の絡み合いは斬新だった。
確固とした歌のコンセプトに基づいて、両義性や情感を排除し、歌唱技術を工学的に扱ってみせるなかにしの作品は、結果的に(やや通俗的ではあるものの)シンプルで明快な物語を聴く者に提示した。これが第三の手法である。
帰らない面影を 胸に抱きしめて
くちづけを してみたの
雨のガラス窓
追いかけても虚しいと気づいた女は、部屋の内側から雨の降る街を眺めている。胸をよぎるのは逃げていく相手の背中。これは、実は「ウナ・セラ・ディ東京」と同じシチュエーションである。ただ、この主人公は窓外に時代の喪失感を認めるようなことはしない。彼女が見ているのは、具体的な「逃げる男」の姿であり、世界の仮象性の喩ではない。物語は二人の異性の間で進行し、完結する。コンパクトな失恋のドラマである。
「恋のフーガ」に続き、1968年には「恋のオフェリア」や「愛のフィナーレ」などの秀作も生まれている。「恋のオフェリア」は、シェークスピアの『ハムレット』に想を得て、自ら入水して死を選んだ悲劇の女性、オフェリアを擬した歌である。翌年弘田三枝子に提供した「人形の家」と同じく、あたかも文芸作品から物語を引用したように見える歌詞である。
さらに「恋のオフェリア」のセールスがまずまずだったことに意を得て、2枚組LP『ピーナッツ・ゴールデン・デラックス』(1968年)の4面で、世界の文芸作品を歌わせる「世界名作シリーズ」を企画し、プロデュースに近いこともやっている。
『風と共に去りぬ』に始まって、『青い麦』『マノン・レスコー』『狭き門』『アンナ・カレーニナ』『若きウェルテルの悩み』と巡り、『ハムレット』へ辿り着くこの“世界名作全集”は、飛ぶ鳥を落とす勢いのなかにしだったから実現した企画であろう。
各名作に対応した収録曲は、「アトランタの草原にて」「青い麦」「私はマノン」「愛の告白」「愛の果てに」「ウェルテルへの手紙」「恋のオフェリア」と題された。応じた作曲・編曲家は、中村八大、すぎやまこういち、中村五郎、宮川泰。詞はすべてなかにしが書いた。
もっともなかにしは後年、「恋のハレルヤ」や「人形の家」などの代表作について、自らの戦争体験に依りながら恋物語を書いたと語っているから、「世界名作シリーズ」も表面的な装いにすぎなかったのかもしれない。
この後もなかにしはピーナッツに数曲を提供したが、「恋のフーガ」を超えるヒットは生まれなかった。「世界名作シリーズ」で「ピーナッツのハイテクニックな歌唱」(なかにしによる同シリーズの紹介文)を堪能し、満足したようにもみえる。6年の間をあけて、1975年の解散コンサートで歌われた「帰り来ぬ青春」の訳詞が、姉妹のための最後の仕事になった。
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