アニメーション表現の開拓者
2018年05月14日
高畑勲監督の死を悼む(下)――問い続けた「眠らない知性と理性」
2018年4月5日、高畑勲監督が死去した。来たる5月15日には、三鷹の森ジブリ美術館で「高畑勲 お別れの会」が催される。
高畑監督はアニメーションの表現の幅を押し広げ、日本のみならず世界のアニメーション制作者に多大な影響を与えた。海外のアニメーション制作者たち、特にヨーロッパの監督たちへの影響は多大であり、取材のたびに「彼こそ真に偉大なマスターだ」という声を何度聞いたか知れない。この1ヶ月間、国内外の訃報を悼む声は後を絶たない。
高畑監督がキャリアをスタートさせたのは1959年。当時「アニメーション」の代表は、ディズニーの長編や誇張された動物を主人公とした「カートゥーン」であり、ほぼ「子供向け」「家族向け」というイメージが固定化されていた。それは実写映画とは異なる特殊な見世物という括りを意味していた。具体的には、箱庭的な舞台、夢のようなファンタジー、記号化された喜怒哀楽、美男美女が主人公、コミカルでスピーディな追っかけとギャグ、動物や無機物まで歌って踊るミュージカル、勧善懲悪のハッピーエンド等々であり、その表現出来る範囲は未だ多くの制約に縛られていた。
高畑監督が入社した東映動画は、年1作品の長編映画を中心に制作していたが、これらの幾つかの要素を引き継いでいた。いずれにしても、アニメーション制作には膨大な資金と時間と手間を要するため、量産には適さないと目されていた。
しかし、日本では1960年代に「テレビアニメ(テレビまんが)」として毎週新作を放送するという、前例のない量産が開始された。ほとんどの作品が低予算・短期制作・拙劣な技術による動かない画の連続であったが、試行錯誤を繰り返しながら独自のスタイルを築いていった。それは人気漫画を原作とした複雑な設定と長大な物語、極端に少ない作画枚数と「トメ絵」ならではの可愛らしさ・格好良さの追求等々であった。
高畑監督はそれらの「アニメーション」とも「アニメ」とも一線を画し、実に59年間にわたってエポックとなる作品を世に送り出して来た。そのフィルモグラフィーは、「アニメーションで実写を上回る説得力やリアリズムを実現してみせる」という高い志の下で奮闘した道程であり、まさに血のにじむような荒地の開拓史であったと言える。
まず、その業績をざっと振り返ってみたい。
高畑勲 監督 バイオグラフィー
1935年10月29日 三重県宇治山田市(現伊勢市)に7人兄弟の末っ子として生まれる。
1954年 岡山県立岡山朝日高校を卒業。東京大学教養学部に入学。
1959年 東京大学文学部仏文科を卒業。東映動画(現東映アニメーション)に入社。
1961年 『安寿と厨子王丸』公開。演出助手を担当。
1963年 『わんぱく王子の大蛇退治』公開。演出助手を担当。
1964年 テレビ『狼少年ケン 第14話 ジャングル最大の作戦』を演出(作画監督/大塚康生)。
1968年 初の長編演出(監督)作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』公開。
1971年 宮崎駿、小田部羊一と共にAプロダクション(現シンエイ動画)へ移籍。
1972年 演出作品『パンダコパンダ』公開。
1973年 演出作品『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』公開。宮崎駿、小田部羊一と共にズイヨー映像へ移籍。
1974年 テレビ『アルプスの少女ハイジ』全52話を演出。
1975年 ズイヨー制作部改組により日本アニメーションへ移籍。
1976年 テレビ『母をたずねて三千里』全52話を演出。
1979年 テレビ『赤毛のアン』全50話を演出。
1980年 テレコム・アニメーションフィルムへ移籍。
1981年 脚本(共同)・監督作品『じゃりン子チエ』公開。
1982年 脚本・監督作品『セロ弾きのゴーシュ』公開。
1983年 日米合作『ニモ』の演出を降板。テレコムを退社しフリーに。
1984年 『風の谷のナウシカ』公開。宮崎駿の依頼でプロデューサーを務める。
1985年 スタジオジブリ設立を提案・参画(自身はフリーのまま現在に至る)。
1986年 『天空の城ラピュタ』公開。プロデューサーを務める。
1987年 監督・脚本作品『文化記録映画 柳川堀割物語』(ドキュメンタリー)公開。製作は宮崎駿。
1988年 脚本・監督作品『火垂るの墓』公開(併映『となりのトトロ』)。第1回モスクワ児童青少年国際映画祭児童部門グランプリ、シカゴ国際児童映画祭児童権利部門最優秀賞・最優秀アニメーション映画賞、第6回日本アニメ大賞最優秀作品賞などを受賞。
1991年 脚本・監督作品『おもひでぽろぽろ』公開。
1992年 『おもひでぽろぽろ』が、第42回芸術選奨文部大臣賞、第15回日本アカデミー賞話題賞作品部門などを受賞。
1993年 畑事務所(個人事務所)を創設。
1994年 原作・脚本・監督作品『総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ』公開。
1995年 『平成狸合戦ぽんぽこ』が、第49回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、1995年アヌシー国際アニメーション・フェスティバル長編部門賞などを受賞。日本大学芸術学部で講師を務める(2010年まで)。
1998年 秋の紫綬褒章を受章。
1999年 脚本・監督作品『ホーホケキョ となりの山田くん』公開。第3回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞。展覧会「絵巻物―アニメの源流」(千葉市美術館)の企画を担当。
2000年 構成・演出作品『まほろばのこだま~ののさまたちが目を覚ます』(人形操演と人物の共演/かわせみ座)上演。
2003年 『キリクと魔女』(1998年 ミッシェル・オスロ監督)日本公開。日本語吹替版翻訳・演出を担当。『連句アニメーション 冬の日』の短篇「秋水一斗漏り尽くす夜ぞ 芭蕉」の作・演出を担当。
2004年 「映画人九条の会」結成に際し、呼びかけ人となる。
2006年 『王と鳥』(1980年 ポール・グリモー監督)日本公開。日本語字幕翻訳・宣伝などを担当。
2006~2008年 学習院大学大学院人文研究学科身体表象文化学プロジェクトの主任研究員に就任。
2007年 『アズールとアスマール』(2006年 ミッシェル・オスロ監督)日本公開。日本語吹替版監修・翻訳・演出を担当。第12回アニメーション神戸賞・特別賞を受賞。
2009年 ロカルノ映画祭名誉豹賞を受賞。
2010年 東京国際アニメフェア2010第6回功労賞を受賞。
2011年 「フレデリック・バック展」(東京都現代美術館)に協力。
2012年 『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』(海南友子監督)に出演。
2013年 『夢と狂気の王国』(砂田麻美監督)に出演。原作・脚本・監督作品『かぐや姫の物語』公開。
2014年 第68回毎日映画コンクールアニメーション映画賞、東京アニメアワード特別賞「アニメドール」、第23回日本映画批評家大賞アニメーション監督賞、第36回ミルバレー映画祭アニメーション映画観客賞、第35回ボストン映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第40回ロサンゼルス映画批評家協会賞アニメーション映画賞、第8回アジア太平洋映画賞最優秀アニメーション映画賞、第18回トロント映画批評家協会賞アニメーション映画賞などを受賞。アヌシー国際アニメーション・フェスティバル名誉賞を受賞。
2015年 フランス政府から芸術文化勲章オフィシエを授与される。アニー賞ウィンザー・マッケイ賞を受賞。
2016年 『レッドタートル ある島の物語』(2016年 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督)日本公開。アーティスティック・プロデューサーを担当。
2017年 展覧会「高畑勲がつくるちひろ展 ようこそ!ちひろの絵のなかへ」(ちひろ美術館・東京)開催。
2018年4月5日 肺癌により死去。享年82歳。
高畑勲 監督 フィルモグラフィー
1961年 [映画]安寿と厨子王丸 (演出助手)
1962年 [映画]たのしい文明史 鉄ものがたり (演出助手・制作進行)
1963年 [映画]わんぱく王子の大蛇退治 (演出助手)
1963年 [映画]暗黒街最大の決斗 (助監督)
1963~65年 [TV]狼少年ケン (絵コンテ・演出)
1965年 [TV]ハッスルパンチ(オープニング絵コンテ・演出)
1968年 [映画]太陽の王子 ホルスの大冒険 (演出)
1969年 [TV]ゲゲゲの鬼太郎 (絵コンテ・演出)
1969~70年 [TV]もーれつア太郎 (絵コンテ・演出/オープニング演出)
1971年 長くつ下のピッピ(準備作業)
1971年 [TV]ルパン三世 (演出) [TV]ゲゲゲの鬼太郎 (オープニング・エンディング演出/絵コンテ・演出) [TV]アパッチ野球軍 (絵コンテ・演出)
1972年 [映画]パンダコパンダ (演出)
1973年 [TV]荒野の少年イサム (絵コンテ・演出) [映画]パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻(演出)
1974年 [TV]アルプスの少女ハイジ (全話 演出)
1975年 [TV]フランダースの犬 (絵コンテ)
1976年 [TV]母をたずねて三千里 (全話 演出)
1977年 [TV]アルプスの音楽少女 ネッティのふしぎな物語 (アニメーション部分絵コンテ・演出) [TV]シートン動物記 くまの子ジャッキー(絵コンテ・演出)
1978年 [TV]ペリーヌ物語 (絵コンテ) [TV]未来少年コナン (絵コンテ・共同演出)
1979年 [TV]赤毛のアン (全話 演出・共同脚本)
1981年 [映画]じゃりン子チエ (監督・共同脚本)
1981~82年 [TV]じゃリン子チエ (チーフディレクター・絵コンテ・演出)
1982年 [映画]セロ弾きのゴーシュ (監督・脚本) [映画]ニモ (準備作業)
1984年 [映画]風の谷のナウシカ (プロデューサー)
1986年 [映画]天空の城ラピュタ (プロデューサー)
1987年 [映画]文化記録映画 柳川堀割物語 (監督・脚本)
1988年 [映画]火垂るの墓 (監督・脚本)
1991年 [映画]おもひでぽろぽろ (監督・脚本)
1989年 [映画]魔女の宅急便(音楽演出)
1994年 [映画]総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ (原作・監督・脚本)
1999年 [映画]ホーホケキョ となりの山田くん (監督・脚本・挿入歌訳詞)
2003年 [映画]キリクと魔女(日本語版翻訳・演出) [映画]連句アニメーション 冬の日「秋水一斗漏り尽くす夜ぞ 芭蕉」(監督) [映画]冬の日の詩人たち(出演)
2006年 [映画]王と鳥(日本語字幕翻訳)
2007年 [映画]アズールとアスマール(日本語吹替版 監修・翻訳・演出)
2012年 [映画]いわさきちひろ~27歳の旅立ち~(出演)
2013年 [映画]夢と狂気の王国(出演) [映画]かぐや姫の物語(原作・脚本・監督)
2016年 [映画]レッドタートル ある島の物語(アーティスティック・プロデューサー)
主な著作
単著
『「ホルス」の映像表現』解説(1983年 徳間書店)
『「話の話」 映像詩の世界』解説(1984年 徳間書店)
『映画を作りながら考えたこと』(1984年 徳間書店)
『木を植えた男を読む』訳著(1990年 徳間書店)
『平成狸合戦ぽんぽこ』原作(1994年 徳間書店)
『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(1999年 徳間書店)
『映画を作りながら考えたことⅡ』(1999年 徳間書店)
『漫画映画(アニメーション)の志 『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』』(2007年 岩波書店)
『一枚の絵から 日本編』(2009年 岩波書店)
『一枚の絵から 海外編』(2009年 岩波書店)
『アニメーション、折にふれて』(2013年 岩波書店)
『映画を作りながら考えたこと 「ホルス」から「ゴーシュ」まで』(2014年 文芸春秋)
『君が戦争を欲しないならば』(2015年 岩波書店)
訳書
ジャック・プレヴェール著『ことばたち』(2004年 ぴあ)
ジャック・プレヴェール著『鳥への挨拶』(2006年 ぴあ)
高畑監督は、初監督(演出)作『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)で、架空世界のファンタジーに「侵略者に抗する団結の在り方」という社会的テーマを盛り込んだ。村落共同体の生活と労働描写、人物の複雑な感情表現と心理的葛藤など、前代未聞の表現に果敢に挑戦した。上映時間や制作環境、組合運動などとの関連もあり、全シーンが成熟した表現とは言えないが、部分部分の完成度は同時代の国内外の長編と比肩しても斬新さにおいて優っていたと言える。特筆すべきは、高畑監督はアニメーションの王道たるヒロイック・ファンタジーをこの1作しか作っていないことである。
『アルプスの少女ハイジ』(1974年)では、スイスとドイツのロケーション・ハンティングを元に生活と労働のリアリティを膨らませ、子供たちの何気ない仕草や自然環境の魅力をスローテンポで描き出した。アニメーションが最も苦手な領域として敬遠されて来た「実在感のある舞台空間」「衣食住」「日常芝居」ばかりで全話を構成するという、無謀とも言える挑戦であった。
それは視聴者・観客が日常生活や自然環境の魅力を再発見することで実現可能な喜びを見出すという、アニメーションの全く新たな可能性の開拓でもあった。同時に、架空世界で特殊な能力に長けたヒーロー、ヒロインに自身を仮託して自己実現を楽しむ流行に対する強烈なアンチテーゼでもあった。
しかし、高畑監督は『ハイジ』の圧倒的支持に背を向け「大人の理想を投影した少女像ではないか。それで良いのか」と自問する。続く『母をたずねて三千里』(1976年)では、日常重視を基本としながらも、大人に媚びない自立型の少年マルコを主人公に設定し、容易に越えられない現実を他者との関係の中で突きつけられる苦難の旅路を描いてみせた。それもまた、誰も踏み込まなかった新たな可能性の追求であった。
『赤毛のアン』(1979年)では、さらにスローテンポで多弁な少女のユーモアをドキュメンタリー風の客観的視点で描き出した。同時に、英語を話すはずの主人公の演技設計を、音律や表情筋の動かし方が異なる日本語で行わなければならないという矛盾を抱え込んだ。
テレコム・アニメーションフィルム制作の長編『じゃりン子チエ』(1981年)で大阪の下町を生きる庶民を描いて以降は、全ての作品の舞台を日本に設定。決して外国を舞台にすることはなかった。
スタジオジブリで制作された長編『火垂るの墓』(1988年)では、戦中戦後の神戸を舞台に薄幸の兄妹をリアリズムを突き詰めた演技を連ねて表現した。日本特有の声優によるアフターレコーディング(アフレコ=台詞を後で録音)ではなく世界基準のプリレコーディング(台詞の事前録音)を採用し、声演の生々しさを追求した。
また、幽霊の主人公が過去の自分たちを見つめるという入れ子構造や現代のイルミネーションを被らせたラストなど、観客が簡単に没入出来ない構成を意図した。しかし、この作品の悲劇性ばかりがクローズアップされ、「感動した」「泣けた」「戦争は悲惨だ」といった感想一辺倒であったという結果について、高畑監督は「反省した」と語っている。
『おもひでぽろぽろ』(1991年)では、現代と過去が回想で入れ子構造となり、作画様式まで2通りになるという更に複雑な構成を築いた。1作ごとに、単純な話運びや明快な結末を示す作劇上のカタルシスを回避する傾向が強まり、「これで良かったのだろうか」と観客に「考えさせる」余韻に比重が置かれるようになった。量産される「アニメ」の傾向とは真反対の、「可愛らしくない」「泣けない」「支持されにくい」作品をあえて作り続けたと言ってもよい。
自ら原作を務めた『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)では、狸の群像劇をドキュメンタリー風年代記として綴り、特定のキャラクターに寄り添う主観的進行を排した。狸の味方となる人間は現れず、命運尽きてもしぶとく生き延びる姿は、あまりにも苦い。
『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)では、素描風の線描を水彩調で仕上げるという新様式を実現した。日本の「アニメ」は人物を線で括って色面で塗り潰し、写実的背景とセットで撮影する「セルルック」様式ばかりであり、いくら緻密化しても絵画的統一感は得られない。よって従来の制作法を白紙に戻し、画風の根本から再考し、一からシステムを模索しながらの制作となった。完成後の打ち上げパーティで、高畑監督は「これが当たろうが当たるまいが、人が一人も来なくたって、アニメーションの表現としては成功したと思っています」と舞台上で語っていた。
そして、遺作となった『かぐや姫の物語』(2013年)では、素描風の絵作り・複雑な心理描写・多義的結末などこれまでの全てのモチーフを一層深化させた。
ほかにも、派手なカメラワークや編集に頼らず固定カメラの長回しで演技の起点から終点までじっくりと見せるシーン設計を多用するなど、極めて難易度の高い表現に挑み続けた。同時に、キャラクターデザイン・レイアウト・色彩設計・動画チェックなどの責任職を専任制とするなど、優秀なスタッフたちと共に過酷な制作現場の整備に尽力して来た。
一方、高畑監督はスタジオを離れた著述・講演・研究活動にも長年取り組んでおり、アニメーションの社会的地位の向上と表現の可能性を論理的に提起し続けて来た。その研究テーマは映画とアニメーションの作品・演出論から、絵巻物・絵画・日本語・クラシック音楽・詩・落語に至るまで深く幅広かった。美術展の開催や解説、作詞・作曲、翻訳、クラッシック音楽CDのリリースなども行なっている。これらの知見が全てアニメーション作品に流れ込んでいたとも言える。
また、晩年は日本国憲法第9条の堅持を掲げた社会的・政治的発言も数多く、集会・デモ・訴訟にも参加して来た。そこにも作品で打ち出してきた社会との向き合い方、人の暮らしの在り方との共通点が多々あった。
高畑監督は、常に現状を弁証法的に否定し、新たな可能性を模索し続けた。その実践的改革がなければ、アニメーションの歴史は今とは明らかに違っていた。まさに唯一無二の巨匠だった。
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