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[書評]『評伝 島成郎』

佐藤幹夫 著

今野哲男 編集者・ライター

繰り返される志

 島成郎。1931年、東京生まれ。今は昔、60年安保闘争のヒーローだ。1950年に東京大学教養学部に入学、日本共産党に入党する。

『評伝 島成郎――ブントから沖縄へ、心病む人びとのなかへ』(佐藤幹夫 著 筑摩書房)定価:2600円+税『評伝 島成郎――ブントから沖縄へ、心病む人びとのなかへ』(佐藤幹夫 著 筑摩書房) 定価:2600円+税
 しかし、「所感派」と「国際派」が抗争した共産党のいわゆる「50年分裂」の余波で、51年にはいったん党を除名される。すぐに復党するが、その間も、大学の自治会副委員長として占領軍のレッド・パージ闘争に参加。54年、医学部に進み、以降は「全学連再建」に精力を傾けた。

 反目しあっていた上層部の両派が、何の説明もなく手打ちした「六全協」の衝撃をきっかけに――ここは敗戦時の日本人の節操のない変身を連想させられる――、若い党員の一人として「党」への疑問と批判を強め、やがて「医師になる前に革命家」と思うようになる。

 「砂川」の農民たちの反米の基地反対闘争を、党の計算ずくの党派的な見方とは別個に、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」の視線で熱く闘った勢いに乗じて、その後は仲間たちと党内分派活動を画策し、58年に「パルタイ」(=「党」)ならぬ「ブント」(=「同盟」)を結成、日本名を「共産主義者同盟」とする。その初代書記長になり、全学連主流派の頭目の一人として、安保闘争を主導した。唐牛健太郎や樺美智子など、当時の反体制のスターたちとともに闘い、雁行しながら支えていた若きアジテーター(=指導者)だった――。

 と、型通りに紹介しながら、ふと思う。時代のヒーローといっても70年近くも前の話だ。60年安保とまでは言わなくとも、70年安保くらいは知っている世代ならともかく、それより下の今の読者にとっては、「島成郎」の名で喚起される、かつてのロマンチックな響きはありようもない。72年に起きた「連合赤軍(リンチ殺人)事件」以降、今に続く消費社会の進展の陰で、それ以前は「反体制」という言葉に孕まれていた、表現としてのエロチックな匂いは、少なくとも時代の表面から消え失せたと見做すのが通り相場だろう。ならば、「伝記」だったらまだしも、「評伝」という形で批評的に取り上げた、著者・佐藤幹夫の現代的なモチーフはどこにあったのだろう?

 それは、おそらく「ブントから沖縄へ、心病む人びとのなかへ」という副題に込められている。島成郎の前半生とも呼べる60年安保に至るまでの、コミュニズムよりは、おそらく戦後民主主義をより強い精神的なバックにした、派手な政治活動に比べると、安保以後の彼の後半生を知る人は、そう多くない。

 しかし、彼の全生涯を知る鍵は、前半生よりどうやら後半生にあるというのが、彼の見立てらしいのだ。それは、本書が「ブント」の幹部として名を成した人物の評伝であるにもかかわらず、全体の約3分の2を、「ブント」以後の半生に費やしていることで推測できる。佐藤は「ブントから沖縄へ」という副題の意味するものを、島も参加し、2000年に収録された「生まれたてのブントが主導した全学連は何を目標にやったのか」という座談会(『シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争 1957-1960』所載、毎日新聞社)での石川真澄(朝日新聞記者)と編集部のやり取りを引用して、こう暗示する。

編集部 当時、沖縄から出撃するのなら、事前協議の問題にならないといったのは、沖縄は日本じゃないということですか。
石川 それはそうです。僕はね、その後ですけど、社会党の非武装中立は大丈夫なのかという話を問い詰めたら、沖縄があると。つまり、沖縄に米軍基地があるから、日本の本土は核抑止力で守られるから、非武装中立は成り立つというんですね。社会党の本音がそうなんです。国際局の本音ですよ。

 非武装中立と平和憲法は、沖縄の米軍基地によって守られている。米軍によって武装した(させられた)沖縄には非武装中立も平和憲法もない。「沖縄は日本じゃない」ということを、社会党も(ということは他のすべての党も)、マスメディアも、口にこそしないが、60年の時点で、(もっと早く52年(「サンフランシスコ平和条約」の発効年――執筆者注)の時点で)、すでに認識されたことを、石川の発言は示している。

 ここで、著者が言いたかっただろうことを、わたしなりに短めに要約すると、以下のようになる。

 55年体制以後の保革それぞれの安全保障に対する政策は、保守側が「自主憲法」を見据えた「日米安保」の堅持、革新側が「護憲」に基づく「非武装中立」だった。一見、逆に見えるこの保革の対峙には、見えざる共通の前提がある。「日米安保」も「非武装中立」も、実は沖縄にある米軍の治外法権的な「核の傘」がなければそもそも成り立たないという「からくり」である。そして、両陣営とも、核の存在を明言しないという米軍の世界戦略をいいことに、その「からくり」から目をそらし続けてきた。

 そして、島は「ブント」によって「旧左翼」を乗り越えようとした自分たちの闘いは、この沖縄という棘を真摯にとらえるという点において、未熟だったとだんだん気がついていったのではないか。そして、そのことを償うかのようにまだ米軍の占領下にあって、本土の医療の枠外にあった沖縄に向かい、その後の曲折が少なくないとはいえ、一人の精神科の医師として、現地の地域精神医療の充実に、最期まで力を尽くすことになる。

 地域精神医療の基本は、閉鎖病棟への患者の長期入院に象徴される治安管理的な発想に抗し、開放病棟を旨として、患者をできるだけ地域との交流の中で治療する方策を探ることにある。基本は、医師や看護師や保健師といった人間たちが、患者やその家族と対等に向かい合って行う巡回医療などのチーム医療である。著者は、その経緯を取材で得た幾多の証言と資料を駆使して、結論を急がずに、人間臭いエピソードをドキュメンタリーふうに随所に織り交ぜながら、丁寧に慎重に構成していく。安保闘争後の漂流、医学部への復学、ブントの幹部だったことによる占領下沖縄での米軍による入域拒否とその乗り越え――。筆致は熱いものの、あくまで冷静だ。

 当時の沖縄の精神医療には、多くの混乱があったという。1つは戦後まで精神科の医療施設が1つもなく、精神医療のゼロ地帯だったこと。次に、占領下にあって戦後日本の「精神衛生法」が適用されず、明治33年に制定された「精神病者監護法」が実質的に生きており、それが、患者を座敷牢や監置所に幽閉する治安管理的な医療の根拠となっていたこと。さらに、監置所に入れられぬ患者は、放置・放任するに任され、「フリムン(精神病)」「フラー(知的障害)」と呼ばれて、街を彷徨っていたこと。もう1つは、治療ではなく、ユタによる民間療法を大事にする風土があったこと、などだ。

 そのなかで、多くの人を巻き込み、例えば家族会を組織し、当時は先端的だったデイケアなども積極果敢に取り入れながら、島成郎は、まさにブントの「ヴ・ナロード(人民の中へ)」的な治療方法と医療を組織していく。副題の「~心病む人びとのなかへ」にはそういった暗喩も込められていよう。若いころに中央集権的に管理する「パルタイ」(=「党」)を嫌い、あくまで「ブント」(=「同盟」)を目指した稀代のアジテーター島成郎の、面目躍如といえる後半生だ。安保闘争は敗北だったかもしれない。しかし島成郎は、その経験を糧に人間味豊かな初心を貫いたのだ。

 著者の佐藤は、養護学校の教員を20年以上勤めたキャリアを持つ1953年生まれのフリージャーナリスト。批評誌『飢餓陣営』の主宰者として、思想・文学・心理学などの分野で評論・執筆活動を続け、出版の企画・プロデュース、編集なども手がける。著書には、『自閉症裁判――レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』(洋泉社、2005年、のち朝日文庫)、『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」――17歳の自閉症裁判』(岩波書店、2007年)、『知的障害と裁き――ドキュメント 千葉東金事件』(岩波書店、2013年)など、島の関心と重なるものも多い。ほぼ父親に近いほどの年齢差がある島のエネルギッシュでややアナーキーなキャラクターは、そういう彼には格好のものだったと思える。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。