山崎佳代子 著
2018年06月27日
「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島。第一次・第二次大戦、ユーゴスラビア内戦、コソボ紛争と、こんにちに至るまで戦火が絶えない。この土地では、異なる民族が対立し、ひとびとは故郷を追われ、命からがら逃げまどった。だが、どんな状況であれ、人は食べずには生きられない。生きるために食べ、食べるために生きるのだ。
『パンと野いちご――戦火のセルビア、食物の記憶』(山崎佳代子 著 勁草書房)
なじみのない地名、人名、複雑な史実ゆえに、最初は読みにくいと感じるかもしれない。しかし、ひとりひとりの「語り」の細部、その豊かさに、読む者は魅せられるはずだ。ここには、報道や歴史研究からはこぼれ落ちてしまう言葉の美しさ、味や香り、色合いや肌触り、重さと軽やかさがある。それは著者が言うように、「宝石のような輝き」を放っている。
語り手の一人は言う。「食べ物とは、ただ食するもののことではない。食べ物とは思い出であり、料理とは甦りのことである」と。またこうも言う。「食べ物とは、心配、恐怖、愛、秘密の話などをみんなで分け合う場所」なのだと。本書のなかのいくつものエピソードから、これらの言葉の意味を理解することができる。
ある女性は、戦争で何ひとつ買えなくなったとき、今まで焼いたことのなかったパンを焼いた。2キロの小麦粉、生イーストの塊をひとつ、水を加えてよく練る。パンの生地を丸い形にまとめ、温めておいた鉄板にのせて蓋をする。そこに燃えている薪といっしょに灰をかぶせる。こうして45分ほど焼く。火加減がむずかしい。最初にうまくいったとき、みんな大喜びした。「それは素晴らしいパンだった。世界でいちばん美味しいパンだった」。
都市部に疎開していたある男性が語る。最初は腐りやすい食べ物を分け合い、食べられるものをすべて食べてしまうと、次はマカロニ、麺類、ジャムの番になった。それらがすべて底をつくと、建物の周りに萌えているイラクサの若葉を摘んできてスープにした。やがてその茎さえも食べ尽くすと、飢えた家族同士でけんかが始まった。当時いちばん小さかった彼は、みんなに気づかれないように、古い戸棚に残っていたジャムの瓶を取り出し、まず指で、次に鉛筆で、それからプラスチックの定規で、最後のひとさじまでこっそりと食べ続けた。
クロアチアで難民となり、コソボ、ベオグラードへと逃れた女性は、NATO(北大西洋条約機構)による空爆中に一度だけ、ズッキーニの肉詰めホワイトソースあえを作ったと話す。なぜかはわからないが、それから二度と作っていない。「料理をするということは、正常な気持ちを生み出してくれる、それは異常なことが起こっていることに対する抵抗でもあるのよ。空爆中、私たちが住んでいた地区はね、秘密警察のボスと言われる男の人が住んでいた地域で、どういうわけか停電がなかったのよ。信じられるかな。ふふふふっ」。
豊かな口承文芸の伝統を誇るセルビアには、男唄、女唄、そして「境の唄」がある。男唄は民族の歴史を詠う叙事詩、女唄は抒情詩、境の唄はそのあいだにあって、個人の運命を詠うバラードだ。内戦の時代に、著者の心の支えとなったのは、難民となったひとびとの「語り」の世界の深さ、その深さからこぼれる光であったという。困難なとき、「魂はほんの少しの光に照らされることだけを求めている」。
繰り返される歴史のなかの、繰り返しのない個人の人生。それはまさにバラードである。そして、もっとも個人的な記憶を語るとき、その触媒として料理ほどふさわしいものはない。セルビアでは、料理が母から娘、姑から嫁へと、国境や言葉を越えて伝えられ、歴史という鍋のなかで煮込まれてきた。そう、唇から耳へと、歌が伝わるようにして。
巻末には、本書に登場する料理のレシピが掲載されている。肉詰めパプリカ(プーニェナ・パプリカ・サ・メーソム)、豆スープ(パスリ)、肉のサルマ(サルマ・サ・メーソム)、マーブル戦争ケーキ(ムラモルニー・ラトニー・コラッチ)……。食べ物とは思い出であり、料理とは甦りのことである。戦火のレシピが、遠くの生を近くへと引き寄せる。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。
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