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拡大工事車両の入場を阻止するためキャンプ・シュワブのゲート前に集まった人たち=沖縄県名護市辺野古
 高橋直輝さんが亡くなられた。

 ビタースイートな人生だった。ほろ苦い人生。そういう言葉が浮かぶ。

 新宿のヤクザから足を洗い、ヘイトスピーチデモのカウンターグループの男組を率いた。ヘイトスピーチ対策法が成立した2016年以降は沖縄の辺野古・高江の基地建設反対の現場へ入り、同年10月に逮捕、翌年3月まで長期に拘束された。執行猶予付きの判決が下ったのは2018年3月。亡くなられたのは4月5日のことで、病死だった。

 4月11日に沖縄の辺野古基地反対運動で逮捕され有罪判決を受けた山城達治さんたちを支援する集会が、東京・神田で開かれた。山城さん、稲葉博さんとともに逮捕された高橋直輝さんもその集会には姿を見せるだろうと思っていたのだが、姿はなかった。山城さん、稲葉さんは控訴を予定しているが、高橋さんは控訴はしないと立場を異にするので姿を見せなかったのかと疑問に感じ、親しい人に確かめてみると、「行く」と言っていたという人もいれば「電話にでないんだけど」という人もいた。沖縄で180日余り拘束され、釈放されてからも公判のたびに那覇へ出向く生活が1年ほど続いていたので、判決が出てからは鬱状態に陥る日もあると聞いた。気持ちの揺れ動きは誰にでもあることだから、人に会わず引っ込んでいたい日もあるだろうと、その晩はそんな話を顔見知りの幾人かとして散会になった。

45歳、突然の死

「組長」のコーヒー牛乳

 亡くなられていたと聞いたのはそれから数日後のことだった。支援者集会のあとで、人と会いたくない日もあるのだろうと話をしていた時は、すでにこの世の人ではなかった。自宅で倒れているところを、訪ねていった知人が見つけた時にはこと切れてから数日が過ぎていたそうだ。警察も死因については入念に調べたそうで、病死に間違いはないそうだ。享年45歳の突然の死だった。

 初めは名護署に、後には那覇の拘置所に収監されていた時、2度ほど面会に行った。釈放されてからは会うこともなく、たまたま今年2月の公判の日に那覇へ出かける用事があったので、裁判所の前で公判が終わるのを待った。日が西に傾き、裁判所の軒は黄金色の光に包まれた。公判を終え、弁護士さんと2人で歩いてきた高橋さんと裁判所の前で立ち話をした。姿を見たのはこれが最後だった。風采の良い男だった。

 翌日、電話をもらった。裁判の見込みの話などをした。声を聞いたのはこれが最後だ。執行猶予がとれたら控訴はせずに自分の生活を立て直したいと言っていたので、いろいろと落ち着いた頃にでもまた気楽なお喋りでもしようと考えていた。

 女性の性の自己決定権を尊重するという態度を学ぶことが少ない人生だった。セクハラ被害をうったえる人がいると知り、機会があればどういうことを考えているのか、感じているのかを尋ねてみたいとも思っていた。立ち姿の良い男なのに、これはとんでもない欠点であった。高橋さんのためにももったいないという気が今でもしている。

背中に漂わせていた少年の孤独

 高橋直輝さんとソウルへ出かけたのは2014年の春だった。セマウル号沈没事件が注目を集めている最中だった。高橋さんはこの時、暴行事件で有罪判決を受け執行猶予がついていた。被害者はヘイトスピーチを繰り返す団体のメンバーだった。抗議の現場でもみ合いになったことが傷害事件として立件され有罪判決を受けていた。執行猶予中でも国外へ出ることは可能で、日韓友好をうたうデモに参加する目的でソウルへ出かけた。参加者は30人程度だったと記憶している。仁寺洞を安国のほうの入口から入り、タプコル公園に抜ける小さく短いデモだった。高橋さんは男組の黒い髑髏(どくろ)の旗を日本から持参してきていた。

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筆者

中沢けい

中沢けい(なかざわ・けい) 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

1959年神奈川県横浜市生まれ。明治大学政治経済学部政治学科卒業。1978年「海を感じる時」で第21回群像新人賞を受賞。1985年「水平線上にて」で第7回野間文芸新人賞を受賞。代表作に「女ともだち」「楽隊のうさぎ」などがある。近著は「麹町二婆二娘孫一人」(新潮社刊)、対談集「アンチ・ヘイトダイアローグ」(人文書院)など。2006年より法政大学文学部日本文学科教授。文芸創作を担当。

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