高原耕平(たかはら・こうへい) 大阪大学文学研究科博士後期課程
大阪大学文学研究科博士後期課程(臨床哲学)。大阪大学未来共生イノベーター博士課程プログラム所属。1983年、神戸生まれ。大谷大学文学部哲学科卒。研究テーマは、トラウマに関する精神医学史、阪神淡路大震災、災厄の「記憶」。最近の論文として、「反復する竹灯篭と延焼 阪神・淡路大震災における〈復興/風化〉と追悼の関係」(『未来共生学ジャーナル』3号、2016年)など。
※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです
死者とわたしたちを隔ててゆく「ことば」
ベッドの真上にエアコンの室内機があり、万が一これが落ちてきたら死ぬなと引っ越してきた日から思っていた。揺れ始めたときに真っ先に見たのもこのエアコンだった。エアコンが落ちると本気では思わなかったが、落ち始めるのを確認してから逃げては遅いだろうと一瞬で考え、身体を横転させてベッドから転げ下りた。
それでも揺れが収まらず、こんどは金属製の本棚が怖くなった。耐震用のつっかえ棒をはめ込んであるのだけれど、万が一の万が一を考えて部屋の外に逃げることにした。1995年の震災でそうして生き延びたひとの話を直接聞いたのを思い出していた。ぱさ、ぱさ、と紙のファイルが本棚の上から落ちる音を聞いた。文字通り揺れの中を逃げたわけだけれど、震度6弱だったからできたことで、それ以上だったらどうだったかわからない。カギを開けるときが一番集中力を使った。裸足でマンションの外に出てもまだ揺れがわずかに続いていた。
次いで考えたのは、周辺の被害だった。とくに家の中でタンスなどの下敷きになっているひとがいれば救出に向かわねばならない。しかししばらく耳を澄ませていると、町内は案外静かだった。揺れの程度を思い出して、大丈夫そうかな、と思った。
その次に考えたのは、兵庫県西宮市の認定NPO「日本災害救援ボランティアネットワーク」が動くかどうかということだった。理事長やスタッフはすでに初動を開始しているだろうと思った。もしかれらがこのあたりで活動することになれば、そこに合流しようと考えた。しかしこちらから連絡をすると先方の通信能力を奪うのでとりあえず待機しようと考えを変えた。このとき、自分の住む地域(箕面市)が揺れの中心に近いのか辺縁なのかわからないなと気づいた。
部屋に戻るのが怖かったが、神戸の家族に無事の一報を入れねばならなかった。LINEで既読数が家族の人数分つくのを確認したあと、部屋を見てみるとホッチキスが本棚から落ちていた。そういえば部屋から逃げ出しているとき、「カチャン」と硬いものが落ちる音がしていたのを思い出した。そのときはいちいち何が落ちている音なのかを判別しておらず、後になってから認識を更新したわけである。
夜、ベッドに入るとき、もう一度同じことができるだろうかと考えた。阪神・淡路大震災のとき、ベッドの頭の近くに置いていた棚がズレ落ちかけていた。父が「これが落ちとったらアウトやったな」と言った。逃げながら何かが頭に当たり、よろめく自分を想像した。どのくらいの重さのものだったら自力で押し返せるだろうか。もしマンションが倒壊して生き埋めになれば、何時間くらい耐え得るだろうか。
いろいろと考えてみるが、どのように勘案してみても「これぐらいの危険であれば大丈夫だろう」という心情的結論に達して満足してしまう。つまりどんなシミュレーションをしても、最後は自分が無事生存するという結末で締めくくってしまう。「こうなったら死ぬしかないな」というようにも考えるのだけれど、そうするとそこでシミュレーションが終わってしまうので、自分が生き残る方向であれこれ考え直す。いろいろな死に方を考えてみても、あまりリアルなものとして実感できない。
つまり、自分が災害で死ぬとは思っていないのだ。
1995年1月17日に起きていたこと――その日その瞬間へ立ち戻るために
災害で死ぬとはどのような事態なのだろうかと考えようとする。