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[書評]『太陽肛門』

ジョルジュ・バタイユ 著 酒井健 訳

渡部朝香 出版社社員

バタイユ、29歳の叫び

 夜が好きだ。静けさ。自由さ。目覚めたままでも夢を見ることが許される、特権的な時間。いまも深夜にこの原稿を書いている。

 そして、どうやら私だけでなく、太陽も夜を愛しているらしい。なのに、当然のことながら、太陽が不在だからこそ、夜は夜……。

 「太陽は、眼差しに、夜に、出会うことができない」

 『太陽肛門』(“L'anus solaire”)なる本に、このように書いたのは、かのジョルジュ・バタイユである。

『太陽肛門』(ジョルジュ・バタイユ 著 酒井健 訳 景文館書店)定価:本体520円+税『太陽肛門』(ジョルジュ・バタイユ 著 酒井健 訳 景文館書店) 定価:本体520円+税
 「太陽肛門」。この言葉の組み合わせだけでドキドキしてしまう。岡本太郎の太陽の塔の背面、あの巨大な像のおしりのあたりに描かれた、黒い太陽を思い出す。あるいは、太陽と月、口唇と肛門の神話を緻密に読み解いた、クロード・レヴィ=ストロース『やきもち焼きの土器つくり』(みすず書房)とか。「太陽」+「肛門」。なんと強く、さまざまなことを喚起させる言葉だろう。

 『太陽肛門』は、1927年、バタイユが29歳のときに書いた論考だ。だが、今回、景文館書店によって邦訳が刊行されたこの本のなかで、その論考そのものは、たった20頁にすぎない。短い。けれど、かなり手ごわい。文字を追うだけならわずかの時間で済むが、簡単には咀嚼できず、行きつ戻りつしながら読む。見過ごすことのできない、気持ちを揺さぶる言葉が並んでいる。

 書き出しはこう。

 「世界が純粋にパロディであるのは明白なことだ。つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである」

 パロディは本書の重要なテーマだ。この論考のなかで、性交はさまざまなパロディに転じていく。

 「地球は、自ら回転しながら、その上で動物や人間を性交させているし、また(結果として現れることが、原因になったり誘因になったりするように)動物と人間は性交しながら地球を回転させている」

 星新一が人間は地球に乗って太陽の周り9億4000万キロメートルを1年かけて一周する宇宙旅行をしているのだと書いていたような(『きまぐれ博物誌』角川文庫)壮大な回転運動。それと性の運動があいまって、パロディはさらに怒涛の展開となっていく。

 「太陽に向けられた愛欲の最初の形態は、海水の上に立ちあがる雲なのだ」。そして、火山は地球の肛門である、太陽の光輪は太陽自身の肛門である、と。

 最後に、夜に出会えぬ太陽の不可能性を示して、この小さくて大きな一文は幕を閉じる。

 エロティックで滑稽。それでいて厳かに美しく、難解なのに心惹かれてやまないバタイユの言葉。その理解を助けるべく、この本には訳者の酒井健さんによる細やかな脚注と、本文の2倍、40頁にわたる、魅力的な訳者解題が付されている。

 「泣けてくるような愚直さが行間からあふれ出ている。いい歳をした大人になってもまだこんなことを語る、痛ましいほどの正直さ」(訳者解題)

 酒井さんが紹介する、この論考に至るまでのバタイユの人生は、過酷だ。進行した梅毒のせいで失禁を繰り返す父のもとで育ったバタイユは、精神的な痛苦から逃げるようにして16歳でカトリックへ入信するが、ベルクソンの『笑い』をきっかけに徐々に信仰を失い、「悲しき錯乱」に陥りながら「陽気な破廉恥漢」をめざすようになる。自身が「病的な人間」だったと回想する時期に書かれたのが、この『太陽肛門』だった。

 バタイユの排泄物へのこだわりはその成育歴に起因していそうだが、酒井さんは、排泄物について、こう書く。

 「排泄物への嫌悪は、問題として孤立しているのではなく、差別、虐待、戦争、テロリズムといった社会の暗い面につながっている。役立つことに基底を置いた自己中心的な社会問題とつながっているのだ」

 なるほど、バタイユが従来の排泄物のイメージに抗うかのように、「肛門」の意味を拡張させ、転倒させ、用いている。概念のレジスタンスだ。

 バタイユの若き日の混迷の時代に生み出されたこの論考は、荒ぶっているが、なにか優しさを感じる。酒井さんは、パロディと並走する本書の重要なテーマは「愛欲とその合一の不可能性」だと説く。この『太陽肛門』に描かれる自他の関係は、「誰それの、と限定できない生命を生きているからこそ生じる自他の不合一と輝き。それぞれの個性が放つアウラは、両者が別々でありながら別々でないことを明かしている」(訳者解題)。

 つまり、太陽と肛門は絶対的に違うものだが、違うからこそ呼応しあう。ひとつにはなれない、でも、だからこそ、ひとつでもある。それは、人であることも、ものであることも、星であることすら超えていく――。

 夜、目覚めながら見る夢は、尽きることがない。その夢が、たった64頁の本から繰り広げられていくのだから、なんて素敵なんだろう。

 ひとり出版社の景文館書店がバタイユの小品を冊子状の書籍で刊行するのは、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』につづき、この『太陽肛門』が3冊目。いずれも黒を基調としたクールな表紙で、たとえばバタイユの〈恋愛論〉である『魔法使いの弟子』は、キリンジのPVから市川実和子の運転する横顔の写真が用いられていて、それだけで、すでに恋の気配を感じさせるものとなっている。

 今回の『太陽肛門』の表紙は写真を用いた前2作と異なり、文字だけのシンプルなものだが、ひとたびめくると、そこには、セックス・ピストルズの写真が1頁大で堂々と掲載されている。シド・ヴィシャスの叫ぶ顔があり、その向こうには恍惚とした表情のジョニー・ロットンが見える。

 『太陽肛門』をバタイユが書いたのが29歳。たしかマルクスが『共産党宣言』を書いたのも、ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』を書いたのも、29歳。写真のなかのピストルズの二人は20代前半。いつだって若者たちが、のたうちまわりながら世界の真実を探り、世界を揺さぶってきた。彼らが残した表現は、世代を超え、時代を超えて、その叫びをいまに届けている。

 訳者解題の末尾の一文、バタイユが引いたニーチェの言葉は、この『太陽肛門』という本がどのようなものであるか、そして書物というものがどのようなものであるかを表わしていて、感動的だ。それは、この本を手にとった方の楽しみとして、ここでは紹介しないでおこう。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。