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必見!『犬ヶ島』は、国辱映画か?(中)

ディストピアとしてのメガ崎市など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

映画「犬ケ島」から 〓2018 Twentieth Century Fox拡大映画『犬ケ島』 (c) 2018 Twentieth Century Fox

 近未来の日本を舞台にした『犬ヶ島』には、日本の文化や景観への目くばせが散りばめられているが、ウェス・アンダーソン(以下WA)自身言うように、黒澤明監督らへのオマージュを含め、『犬ヶ島』には彼の“日本愛”も顕著に見てとれる。

 しかし誤解してはならないのは、本作の中心的コンセプトはWAの“日本愛”などではない点だ。なるほど、冒頭で人形たちが打ち鳴らす和太鼓は、黒澤明の『悪い奴ほどよく眠る』(1960)からの借用だし、白いスーツを着た肩幅の広い小林市長の厳(いか)つい容貌は、黒澤映画の“顔”である三船敏郎を連想させる。さらに、作中では黒澤映画で使われた「小雨の丘」や「東京シューシャインボーイ」といった歌曲が流れるし、はたまた背景セットのなかには、歌川広重や葛飾北斎の浮世絵に影響されたと思(おぼ)しき、奥行きを遮断するような襖絵もある(それらはしばしばスライド式に画面に挿入される)。

 しかしながら、WAの嗜好品であるそれらは、あくまで、作品世界に効果的なアクセントを加えるために参照されたものだ(つまり、そうした趣向は、WAの日本文化へのリスペクトを含むが、たんなる“日本愛”の表明ではない)。むろん、そのことと、WAの学んだ日本の文化や景観が、本作の着想源となったこととは矛盾しない。つまりWAは、黒澤映画や浮世絵にインスパイアされつつ、持ち前の奔放な想像力によって、誰も見たことのないキッチュで架空の――懐古的かつ未来的な“レトロフューチャー”風の――日本を創作したのである(日本の新旧の風物がミックスされて並存している点、つまり異質なものがハイブリッドに混成している点で、メガ崎市はポストモダンな日本の都市だといえるが、「1960年代の邦画が2000年代の日本を描いたとしたら?」という着想から、本作のすべてはスタートしたとWAは述べているという)。

異様なリアルさを放つ日本の都市

 それにしても、精巧に造形されたメガ崎市のビジュアルには目を奪われる。――犬ヶ島に廃棄された無数の鉛色のタイヤ、色とりどりのペットボトル、岩の上に乗り上げた小型の漁船、事故後の原発を思わせる破損した不吉な装置、偵察機の墜落によって発生するキノコ雲、ゴミ処理場を転がるタンブルウィード、檻に入れられた犬たちを島に移送する一直線のリフト、廃墟化した遊園地(?)の巨大なすべり台、大魔神ふうのサムライ像、あるいは市の中心部のネオンきらめく高層ビル、相撲の興行、寿司屋、ラーメン屋「竜来軒」、赤い鳥居を構えた神社、ちょうちんが鈴なりにぶら下がる商店街、瓦屋根の家々、その屋内に置かれた旧式のテレビや電話、赤い漆が塗られた市庁舎ドーム、無機質な白壁の科学ラボ(これはスタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』<1968>へのオマージュ)、などなど……である(メガ崎市の上空を漂う雲は綿毛で、川の流れは小型のベルトコンベアの移動でそれらしく表現されている)。そして繰り返すが、メガ崎市とは、実在の日本の景観を着想源として創作された、<どこでもないキッチュな日本>なのであるが、にもかかわらず、この架空の日本の都市は異様なリアルさを放つ。

 その理由のひとつは、フクシマを連想させる犬ヶ島という負の空間=呪われた場所 ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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