黄色い傘の下、奇跡のような瞬間の連なり
2018年07月13日
2014年、アジア各地で起きたムーブメントは、この先の未来、どのような文脈で語られていくのだろう。
2014年3月、台湾では、国民党政府が中国と結んだ「中台サービス貿易協定」の審議を強行採決したことに抗議し、学生たちが立法院(国会)を23日にわたって占拠するという、いわゆる「ひまわり学生運動」が発生、政府から一定の譲歩を引き出すことに成功した。
9月には、香港で「真の普通選挙」を求める学生や市民たちが数万人集結、79日間にわたって中心街を占拠した。警察の催涙弾から身を守るための「雨傘」は、この運動のシンボルとなり、「雨傘運動」と呼ばれるようになる。
一方、日本の2014年といえば、特定秘密保護法に反対する学生たちがSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)を立ち上げた時期である。SASPLは翌年SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)となり、集団的自衛権の行使容認をベースにした安全保障関連法に反対する大規模な運動の中心を担っていく。
こう並列すると、必ず出てくる批判がある。徐々に強まる中国からの圧力に抵抗し、「真の民主主義」を求める香港の若者たちの切実な闘いと、日米を軸とした安保体制の現実路線に駄々をこねているような日本の学生たちの運動を同列にするな、という声だ。
しかし、どちらにおいても若者たちの怒りの先にあるのは法制度そのものではない。香港大学で法律と文学を専攻し、オキュパイ(占拠)運動の前線に立つレイチェルは言う。
「歪んだ政府を受け入れてはダメよ。私は絶対に嫌」(映画『乱世備忘 僕らの雨傘運動』<後述>より)
歪んだ政府、普通選挙の約束を果たそうとしない政府、憲法解釈の変更を閣議決定で決めてしまうような政府を受け入れた瞬間、民主主義は死んでしまう。その直感が、日本においても香港においても若者たちを路上へと向かわせたことは間違いない。
しかし、運動は終わった。
雨傘運動によるオキュパイは解散を余儀なくされ、運動の中心メンバーは新政党「香港衆志(デモシスト)」を立ち上げたものの、2016年の立法会選挙で香港衆志から当選した議員は翌年その資格を取り消され、ジョシュア・ウォン(黄之鋒)ら運動の中心メンバーが逮捕されるに至る。2018年の補欠選挙では、「雨傘の女神」と言われたアグネス・チョウ(周庭)が出馬を目指すも、民主派の主張は香港基本法(いわゆる憲法)に抵触するという理由で、立候補すら認められなかった。
ひたすら、後退に次ぐ後退。敗北に次ぐ敗北である。
一体、雨傘運動のあの大きなうねりはどこへ行ったのだろう。香港人の民意はどこにあるのだろう。
それは、安保法案の強行採決に反対して国会前に数万人が連日集まっていたはずの日本の今と、まるで鏡合わせのようである。
そんな今、私たちの「現在」を俯瞰し「未来」を予感させてくれる、「雨傘運動」の79日間を最前線でとらえ続けたみずみずしいドキュメンタリー映画が日本に上陸した。『乱世備忘 僕らの雨傘運動』である。
監督は2014年当時27歳、カメラを手に占拠運動の一人の参加者として最前線に立ったチャン・ジーウン(陳梓桓)だ。
「僕は、映画監督としてではなく、カメラを持った一人の参加者として、あの場にいました。何が起きるのか何もわからなかったけれど、警察に押し出される形であのような最前線に立っていたんです」と、チャン・ジーウン監督は語る。
警官の正面に対峙し、不安と緊張をその全身にみなぎらせながらも、「香港の未来は市民のものだ」と訴える学生たちをカメラは捉える。最前線で出会った一人が、前述の香港大学1年生のレイチェルだ。
あるいは、香港大学で英語教育を専攻しているラッキーは、テント村に24時間の野外自習室ができると、「ラッキーの英語教室」を無料で開催。2年前までは政治には無関心だったというが、22歳の誕生日をオキュパイの空間で迎えた。
オキュパイに参加したのは学生だけではなかった。
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