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『菊とギロチン』、栗原康氏が語る女相撲と現代

「『おらも、おらも』と立ち上がっていくのが、Metoo運動の根っこ」

丹野未雪 編集者、ライター

『菊とギロチン』

公開表記:テアトル新宿ほかにて全国順次公開中

コピーライト:© 2018 「菊とギロチン」合同製作舎
『菊とギロチン』(テアトル新宿ほかにて全国順次公開中) © 2018 「菊とギロチン」合同製作舎

 映画『菊とギロチン』が7月7日より公開されている。関東大震災直後、軍国主義にむかい排外主義に覆われた閉塞的な日本社会を舞台に、かつて日本全国で興行されていた女相撲と、実在したアナキスト集団「ギロチン社」が出会う――。史実を織り交ぜた独自のストーリーは、瀬々敬久監督が20代の頃から構想をあたため、東日本大震災以後大きく変えたという。

 この作品のノベライズ『菊とギロチン やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス)を手がけたのは、政治学者の栗原康氏。アナキズム研究を専門とし数々の評伝を執筆してきた氏は、このオリジナルストーリーにどう対峙し、小説を作り上げたのか。

アナキストのリアリティを膨らます

――政治学者がノベライズを書くというのは異例のことだと思いますが、今回の依頼をどのように受けたのでしょうか。

栗原康(くりはら・やすし) 1979年、埼玉県生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム。著書に『何ものにも縛られないための政治学――権力脱構成』(角川書店)、『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)、『学生に賃金を』(新評論)、『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)、『現代暴力論』(角川新書)、『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店)、『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出書房新社)などがある。栗原康氏
栗原 タバブックスの宮川真紀さんから依頼を受けまして、すぐ、「やります」と答えました(笑)。実は、クランクイン前に僕と瀬々監督と映画制作集団「空族」の相澤虎之助さんとのトークイベントがありまして、知り合いでもあったんです。それで、脚本も読ませていただいたら、それがメチャクチャ面白くて。アナキストのはなしをここまで面白くしているなんてすごい、それに、ほとんど無名といっていいアナキスト集団、ギロチン社をメインで書けるなんて、こんな機会はもうないだろうと、即答でしたね。

――これまでに大杉栄、伊藤野枝、一遍上人の評伝を書かれていますが、史実織り交ぜた物語を土台に、かつ、群像劇を描くのははじめての試みです。

栗原 基本的なやり方はこれまでの評伝と変わっていないです。脚本のスジにのりつつ書いていきました。掛け合いのようにギロチン社と女力士たちの場面が切り替わるなかで、書けば書くほど自分のテンションも上がっていく。ギロチン社の思想が女力士のなかに現れたりしていて、おお、と。むしろ普段よりもテンション高かったです(笑)。最初は少し時間がかかったんですが、実質2~3カ月で書きあげました。

瀬々敬久監督撮影中の瀬々敬久監督(中央)と中浜哲役の東出昌大さん(左)=トランスフォーマー提供
――脚本は瀬々監督と相澤さんによる共同執筆です。ギロチン社をはじめ、大杉など実在のアナキストの描き方について、アナキズム研究を専門とする栗原さんからみていかがでしたか。

栗原 もう、アナキストが書いたとしか思えなかったです。ギロチン社の仲間である古田大次郎(寛一郎)が中浜哲(注・映画では中濱鐵と表記。東出昌大)に、「やるやるといって、あんた結局やらないんだよ!」と怒りをぶつけるシーンがあるんですが、中浜の切り返しがいいんですよ。「いや、おれは詩人だからよ」と。もちろんこれは創作ではあるんですけど、中浜のはぐらかすような切り返しにアナキストの面白い余裕というか気まぐれさ、大義を掲げていながらもそれに縛られないやんちゃさがあったりする。作られた部分にリアルなアナキスト像が出ていて、僕はそのリアリティをもっと膨らませたいと思いました。

女相撲にしかないなにかがある

――いっぽう、女力士たちは創作上の登場人物です。このノベライズのために女相撲発祥の地である山形県天童を訪れたそうですね。

栗原 清池八幡神社に行きました。石山女相撲という、山形に本拠をもつ一座が奉納した絵馬を見せてもらったんですが、それがすっごい大きくて。僕が両手を広げた以上の長さで、圧倒されました。神主さんも伝え聞いていることしか知らないそうですが、神社の近くでテントを張って興行していて、その日はズラーッとお祭りみたいに出店が並んだり、ものすごい賑わいだったと。そうした話を聞きながらあらためて絵馬を見ると、やはり異形というか、単に男の相撲をとるんじゃない、女相撲にしかないなにかがあると思えて。実際の女相撲は襦袢を着たうえでまわしをしていますが、絵馬では裸です。ここまで堂々と裸だと、エロでもないんですよ。不可思議なものを感じました。面白いことに、この絵馬には自分たちが絵馬を奉納しにいった様子が描かれているんですよ。

――女力士志願者は多かったそうですね。男尊女卑で、土地や家に縛られて生きるのが当然だという時代に、全国各地を巡業する女力士たちの存在はまったく違う生き方があるという現れでもあった。人々が飢饉にあえぐなか、体格がよく、パリッとした衣装を身につけ、食うことができる。なにより、女性だけの世界というところに、ある種のシェルター的な面もあったのかなと思いました。

栗原 そう思います。現代よりも厳しい家父長制のもとで、男に奴隷のようにこき使われていたわけですからね。映画の『菊とギロチン』は、花菊(木竜麻生)が夫のDVに耐えかねて女相撲に駆け込むところからはじまりますが、実際に逃げ込んでくるケースが多かったようです。家の者たちに連れ戻されても逃げて、また連れ戻されて、最後はトイレの窓から逃げたという力士もいたそうです。

『菊とギロチン』(テアトル新宿ほかにて全国順次公開中) © 2018 「菊とギロチン」合同製作舎『菊とギロチン』 © 2018 「菊とギロチン」合同製作舎

自分の力で生きてみたいと飛び出す女たち

――無名の女性たちを描いていくむずかしさはありましたか。

栗原 もちろんありました。主人公の花菊については、脚本の段階で、育った環境だとかなぜその家に嫁入りしたのかとか、手がかりにできる記述があったんですけど、ほかの女力士についてはそんなに多くなかったんですね。女相撲のもうひとりの主役でもある十勝川(韓英恵)は、朝鮮半島から下関にきて、そこから浅草に出て遊女になる。そこで関東大震災に遭って朝鮮人虐殺の現場を目撃して逃げて女相撲に入った女性です。僕が好きな女力士でもある小桜(山田真歩)は、浅草の家から逃げてきたけれど亭主に捜索願いを出されている。最初はどうすればいいのかとまどいがあったんですが、前々から読んでいた『遊郭のストライキ――女性たちの二十世紀・序説』(山家悠平著/共和国刊)に出てくるような女性の姿をあてはめてみたら面白いかもしれないな、と参考にしました。この本は1920~30年代にかけて遊郭のなかで待遇改善や集団逃走をして生き抜こうとした女性たちの行動を追ったもので、自分たちの力で脱走していくことを「ストライキ」と呼んでいるんです。それから、伊藤野枝や金子文子の要素も入れています。金子も貧乏な家に生まれた人です。金子は幼いころ朝鮮にいる祖母にひきとられるんですけど、奴隷のような扱いを受ける。そこで優しくしてくれたのが同じくひどい目にあっていた朝鮮の人たちなんですね。そういう経験もあって、帰国後、パートナーの朴烈といっしょに、天皇制いらない日本死ね、で動きはじめる。2016年に国会で議論されてデモもおこった「保育園落ちた日本死ね!!!」じゃないですけど、そうしたクソみたいな状況から立ち上がってくる要素をどんどん入れて、結果、やりたい放題書きました。

――「おらも、おらも、ミー・トゥー」という一文が出てきます。女力士たちそれぞれが抱える問題を現代へつなげていこうという考えはつよくあったのでしょうか。

栗原 はっきりありました。救いになるのって、自分と同じ境遇の無名の人が立ち上がっている姿だと思うんです。立ち上がって自分は奴隷じゃないぞという力を見せつけている人がいる、自分も何かできるんじゃないかと、「おらも、おらも、おらも」と立ち上がっていくのが、Metoo運動の根っこの部分じゃないのかなと。花菊が女相撲を覗いて、「これ、女なんだべか」「女もこんなに強くなれる」と憧れるシーンがありますよね。女は男に従うのがあたりまえ、弱いのがあたりまえだとされていた時代に、自分の力で生きてみたいと飛び出す場面を、現代に重ねつつ描いてみたかった。それは僕だけじゃなくて、瀬々さんも相澤さんも重ねていたのかなと思います。(つづく)
(注)栗原氏によるノベライズでは中浜哲、映画では中濱鐵と表記している。なお、これらは通称で、本名は富岡哲(とみおか・ちかい)といった。

栗原康(くりはら・やすし) 1979年、埼玉県生まれ。東北芸術工科大学非常勤講師。専門はアナキズム。著書に『何ものにも縛られないための政治学――権力の脱構成』(角川書店)、『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)、『学生に賃金を』(新評論)、『はたらかないで、たらふく食べたい――「生の負債」からの解放宣言』(タバブックス)、『現代暴力論――「あばれる力」を取り戻す』(角川新書)、『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店)、『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出書房新社)などがある。