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[書評]『何ものにも縛られないための政治学』

栗原康 著

佐藤美奈子 編集者・批評家

アナキズムが開く、もうひとつのあり得る現実

 本書とは一見関わらない、こんな話から始めたい。あらゆるものは移り行き、変わらないものはなく、死なない人はいない。すべては生生流転すると観ずる無常観が日本文化を規定している、とは一般によく言われることだ。「もののあはれ」をあらわす『源氏物語』しかり、「諸行無常」をうたう『平家物語』しかり、「ゆく河の流れは絶えずして」で始まる『方丈記』しかり、である。

 ただこの無常観、どう捉えるかによって、現われ方は正反対にもなる、と思うことがある。推移に悲哀を見るのが平安朝文学だとすれば、移り変わるからこそそこに花を咲かそうとするのが世阿弥の夢幻能だ、というように。花が散る悲しみ、せつなさ、やり切れなさに焦点を当てる平安朝的な「無常」と、「無常」ゆえに開く花に焦点を当てる中世の芸能との違いである。

 起こる事象、変遷する事象そのものは同じでも、「あはれ」の詠嘆に重きを置いて生きるのか、はかない今を燃焼し尽くそうとして生きるのかで、その人の生はずいぶん違ってくるだろう。本書の著者は政治学者でアナキズム研究者だ。本書もいわゆるアナキズムの目線から、主に近代以降の権力機構――議会制民主主義下、自由主義下、革命政権下のそれ――を検証し、それらをメッタ斬りにしていく。メッタ斬りにすることで、今を燃焼し尽くす生を現出させようとする。

『何ものにも縛られないための政治学――権力の脱構成』(栗原康 著 角川書店)定価:本体1800円+税『何ものにも縛られないための政治学――権力の脱構成』(栗原康 著 角川書店) 定価:本体1800円+税
 どうしてメッタ斬りにされないといけないのか。どれも息苦しいからだ。権力が作られる機構ではどこも、思考・感情が萎縮させられていくしくみが働いていて、今を燃焼し尽くす生き方を邪魔するからだ。しかもそれらの下では、委縮させられていることにも気づけないような巧妙なネットワーク――代表的なものがインフラ――が張り巡らされている。だから「権力の脱構成」が必要だ、と叫ぶ。

 同じ「無常」を生きるにしても、今を燃焼し尽くす生き方のほうを、私たちはあまりにも忘れさせられていないか? いわゆるアナキストたちの生き方を通して、著者はそう言うのだ。クロポトキン、シュティルナー、ブランキ、ルイズ・ミシェル、ランダウアー、デヴィッド・グレーバーらの言葉・思想と行動を読み込むことで、もっと自由に呼吸し、委縮した神経や筋肉を解きほぐそう、と文体すべてで訴えかける。

 「敗北にひらきなおれ、墓場の夜にひらきなおれ。それは成功しなきゃいけない、進歩しなきゃいけないと、いつもいつもくちうるさく命令してくる、この社会という名の牢獄から脱獄するってことだ」と。

 著者の文体は、まるで発生(生成)しつづけている、動的な何かをつかまえようとするように躍り、弾む。去勢された現代に、強烈な「快不快原則」を持ち込んでくる。まさに「栗原語」とでも呼びたくなるような記述が、「無常」ゆえに花が開く一瞬を切り取っていく。教科書でならった「パリ・コミューン」「ロシア革命」「ドイツ革命(レーテ運動)」が、「栗原語」に翻訳されることで、「ドキュメント パリ・コミューン」「ドキュメント ロシア革命」「ドキュメント ドイツ革命」としてよみがえる。よみがえってきたとき、眠らされていた、瞬間を生きる没我による快感を思い出すしかけになっている。

 本書がおよそ政治や歴史を語る書物とは思えない、身体的、生理的、感覚的な言葉であふれているのは、著者が、今という瞬間を刻みつけようとしているからだということがあるだろう。けれどそれ以上に、読む者一人ひとりが、もうひとつのあり得る現実に気づき、実感するためにも、大きな意味を持つと思っている。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。