「人の関係を心から変えようとして叫びあげる力こそ、本当の意味での暴力なのかな」
2018年07月27日
『菊とギロチン』、栗原康氏が語る女相撲と現代――「『おらも、おらも』と立ち上がっていくのが、Metoo運動の根っこ」
瀬々敬久監督8年ぶりのオリジナル企画となる『菊とギロチン』が7月7日より公開、話題を呼んでいる。関東大震災直後、右傾化し言論弾圧が強まる社会に生きた女相撲とアナキストたちの群像劇だ。ノベライズを書きあげたのは、アナキズム研究を専門とする政治学者の栗原康氏。「リャク」(掠)で稼ぎ権力者の暗殺を目論む実在したアナキスト集団「ギロチン社」の思想、女力士たちが抗う支配構造をより鮮明に示しつつ、とびきりはじけた小説世界に仕上げた氏に、創作と映画について訊いた。
――映画でもこの本でも、仲間どうし、敵対する者のあいだなど、あらゆる人間関係において暴力が出現します。それぞれの暴力をどのようにとらえていますか。
最も印象的な暴力シーンがあります。ギロチン社の中浜哲(注・映画では中濱鐵と表記)と古田大次郎が在郷軍人会にボコボコにされて死にそうになっているシーンで、「隣の奴は敵じゃないぞ! 共闘せよだァ!」と中浜が叫ぶ。単に力を行使して人を従わせるんじゃない、人の関係を心から変えようとして叫びあげる力こそ、本当の意味での暴力なのかな、と。むしろ、暴力シーンが多いからこそ、中浜のこの言葉が際立ってくる。そういうところにも、瀬々さんの考えがあったのかもしれません。
――ギロチン社、女力士、もっといえば女相撲を率いる親方が、いったい何に抗っているのかが、映画ではじわりと伝わってきます。栗原版『菊とギロチン やるならいましかねえ、いつだっていましかねえ』(タバブックス)では、それがシステムにあると明確に書かれています。
栗原 女相撲の興行は明治期に最盛を誇りつつ、大正から昭和にかけて減って、昭和38(1963)年には最後の興行が廃業します。よりよい国民であれ、真面目な労働者であれと要請される近代化のなかで、風俗を乱すよこしまな見世物だとみなされたんですね。そうした時代にあって、ギロチン社なんてクソ野郎、ダメ人間の集まりみたいなものです。大正時代よりもはるかに多く、細かく、正しくあれ、キレイであれと要請され、規律が厳しくなっている現代で、この二つに焦点を当てているのがこの映画の面白いところじゃないかと思うんですね。猥雑でいい、クソ野郎で上等だ、みたいな態度をうまく出しているなと思いました。それでノベライズの冒頭には、クソに開き直れ、クソッたれの人生を生きましょう、というようなことを書いたんです。
――冒頭の「コロッコロしようぜ、クソくらえ」という一文、破壊力がありました。ところで、ギロチン社の若者たちはとても純真です。「差別のない世界で自由に生きたい」という夢があって、とにかく人に優しい。花菊のDVをふるう夫をやっつけるけれど、けがを負ったその夫を病院に連れていこうともする。
栗原 DVをふるう人間のクズみたいな男でも、
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