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北海道「開拓」でアイヌを迫害した北海道庁の罪

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

共有財産の基礎になった土地台帳などの原本(北海道庁所蔵アイヌ共有財産の基礎になった土地台帳などの原本=北海道庁所蔵

大資本と北海道庁の癒着

 北海道「開拓」は、容易ではなかった。多くの和人が開墾のスキをアイヌモシリ(アイヌの静かな大地)に入れたが、失敗に終わった例も多い。それがうまく行った場合には、そこにはたいていアイヌの協力があった(例えば幕別町教育委員会編『幕別町蝦夷文化考古館 吉田菊太郎資料目録Ⅲ』、2014年、「発刊に当たって」)。

 本格的な開拓は、1880~90年代、じょじょにあるいは急速に成長しつつあった資本によって進んだと言われている。当初、開拓使(1868年設置)および函館県・札幌県・根室県の3県庁(1882年設置)は、政府の保護政策によって開拓をはかったが、北海道庁(1886年設置、以下「道庁」)は、それを「“資本の導入による開拓”に切りかえる」ために設置された(小池喜孝『鎖塚――自由民権と囚人労働の記録』現代史資料センター出版会、1973年、102頁)。

 だが、資本と結びついたということは、アイヌに対する侵害とアイヌモシリに対する収奪がより徹底したものとなった、ということである。そしてそれを可能とした最大要因は、アイヌの和人への「同化」政策であり、また道庁と資本との癒着である。

 もちろん、開拓使も、3県庁も、道庁も、それがおし進めた開拓において、「保護」を名目に先住民アイヌを迫害した点で、共通である。だが、道庁の罪はおそらく最も重い。後述するように規模において大であり、後戻りできない地点にまで開拓を徹底したからである。それだけに、道庁関係者が犯した罪も重い。

 1997年に「アイヌ文化振興法」制定とともに廃止された悪名高い「北海道旧土人保護法」が1899年に制定されるにいたるのは、道庁が犯した不始末のためである(高倉新一郎『アイヌ政策史』日本評論社、1942年、537-9頁)。そして道庁は、後述するように、「北海道国有未開地処分法」(以下、「国有未開地処分法」)とともに「旧土人保護法」の制定・施行を通じて、最終的にアイヌの諸権利を実質的に奪いとったと判断できる。

 ではその「不始末」とはいかなるものだったか。以下、3つの事例をとりあげる。

近文アイヌ給与予定地問題

 第一に問われるべきは、「近文(チカプニ・ちかぶみ)アイヌ給与予定地問題」である。1891年、道庁による「北海道土地払い下げ規則」(1886年制定)にもとづき――ただしこの規則だけでは払い下げ地を十分に確保できなかったため(高倉前掲書、534頁)、超法規的な措置が取られた可能性がある――、上川アイヌに、旭川市(当時は旭川村)近文の土地150万坪(約500万平方メートル)が「保護地」として「給与」されるはずだったが、1894年、実際に給与されることになった土地は、道庁関係者の怠慢・詐欺等により、わずか45万坪になっていた。私的な利害から給与予定地に手がつけられた、と見なされている(同前、537頁)。

 問題はそれだけではすまなかった。その後、陸軍第七師団の近隣地への移転騒ぎが起き、道庁設置後に北海道開拓を推進した大倉財閥の大倉喜八郎や桂太郎・陸軍大臣らがその45万坪の土地を奪うべく、上川アイヌの首長(アイヌコロクル)をだまして、事実をいつわった承諾書に押印させるという事態に進展する。そして給与予定地の管理権をにぎる道庁は、それを承認して上川アイヌに移転命令を出した(同前、538頁)。

 ここに道庁による不正を見出したのは、加藤政之助衆議院議員である。加藤は、第5回帝国会議(1893年)で、すでに近文アイヌ問題等を念頭におきつつ、「我々は安んじて政府の行政権内〔内務省=道庁〕に任せて置くことは出来ない」(同前、539頁)、と論じた。

 幸い近文45万坪は、善意の人びとの命をかけた東奔西走のおかげで奪われずにすんだ(谷川健一編『近代民衆の記録5――アイヌ』新人物往来社、1972年、65-7頁)。だが、最終的に上川アイヌが土地を入手したのは――ただしもともとアイヌモシリ全体がアイヌの土地だったことは忘れてはならない――、実に1934年のことである(谷川編、同前、536頁)。この年、わずか数十戸のために、「旭川市旧土人保護地処分法」(1997年、「文化振興法」の制定によって「旧土人保護法」とともに廃止)が、帝国議会で可決された。

十勝・日高アイヌ共有財産問題

 第二に問うべきは、アイヌが、和人による大規模な「開拓」を通じて生活基盤を奪われて貧窮化するなか、道庁がとったアイヌ共有財産の管理方法に関する疑惑である(高倉前掲書、540頁)。

 そもそもアイヌは、アイヌモシリを「無主の地」にされ天皇家の財産に組み入れられた事実から宮内庁によって、あるいはアイヌを日本国臣民へと薫陶する必要から文部省によって、一定の金員の「下賜」「下附」を受け、それはアイヌの共有財産と認知されていた。一方、アイヌ自身が共同事業を通じて一定の財産を共有した例も多い。例えば十勝アイヌの場合、十勝川(当時は大津川)での漁業を通じて、かなりの規模の共有財産が蓄えられ、アイヌのための病院・学校まで経営されていたという(同前、543頁)。

 だが問題はその管理法である。

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