2018年08月13日
大学はわたしの職場であった。大学でのセクハラ対策は、民間企業よりも一歩先んじていたが、それというのも大学に女性学・ジェンダー研究者が急速に増えた結果、彼女たちが大学内でのセクハラに敏感な対応を求めるようになったからだ。
大学のセクハラ問題の嚆矢(こうし)は1993年の京大矢野事件であろう。それ以前に東北大学大学院のセクハラ事件があったが、加害者の実名報道はされなかった。矢野暢(とおる)教授は、当時京都大学東南アジア研究センターの所長という要職にあり、スウェーデン王立アカデミーの会員としてノーベル賞選考にも関わっていたという著名人であったために、メディアを賑わせた。だが証言しておくが、矢野事件報道は、朝日新聞の東京本社版には登場したが、大阪版には、落合恵子さんの談話を含む連載記事は報道されなかった。後で仄聞したところによれば、大阪本社はセクハラの報道価値が低いと判断したためという。あるいは地元の矢野氏の影響力を「忖度」して、報道しなかったのだろうか。
事件は研究室秘書の甲野乙子さん(彼女は最後まで匿名を守った)が、京都市弁護士会に人権救済申し立てをしたところから始まった。学内にとりあげてくれる窓口がどこにもなく、思いあぐねての訴えだったという。
矢野研究室には複数の女性秘書がいたが、あるとき複数の若い女性秘書がたてつづけに辞めるという出来事が起きた。矢野氏に命じられて、先輩秘書(甲野乙子さん)が事情を聴取したところ、採用時点から始まる数々のセクハラがあきらかになった。甲野さんが驚愕したのは、自分がされたのと同じ経験を若い秘書たちも経験していたことである。同じような犠牲者が出ないように、甲野さんは思い切って人権救済の申し立てに踏み切った。
当時京都大学には、女性教官懇話会があったが、代表の小野和子さんは、自分たちの会が、被害者救済のために機能しなかったことをふかく反省して、甲野さんの支援に回った(小野和子『京大・矢野事件――キャンパス・セクハラ裁判の問うたもの』インパクト出版会、1998)。矢野氏を実名で告発する記事を地元紙に書いたことで、矢野氏から名誉毀損で逆訴訟を受けるということまで起きた。そのあいだに、矢野氏はいったん依願退職、その後、不当な退職勧奨にあったと、地位保全要求をするなど、泥仕合の様相を呈した。
その過程で京大の女性教員たちはセクハラを許さないとさまざまなキャンペーンを張ったが、反対に男性教員の一部には、「たかがセクハラごとき小事で、(矢野氏のような)有為な人材を失っていいのか」と、女性教員たちの告発をやめさせるような動きさえ見られた。どんな世界的な研究者であろうと、有能なトップ官僚であろうと、セクハラはセクハラ。人権侵害をして顧みない人物を許すことはできない、という声は、男性教員の頑強な抵抗に遭いながら挙げられたのである。小野氏に対する矢野氏の逆訴訟は、裁判で事実認定がされた結果、敗訴した。
わたしが東京大学に移籍したのは1993年。東大で京大矢野事件を支援する活動をしようと思ったが、待てよ、と考えた。京都大学女性教官懇話会に当たる学内組織があるだろうか、と調べてみたらないことがわかった。それでさっそく東京大学女性教官懇話会を組織した。のちに「教官」を「研究者」と変更したのは、技官や院生などの教育職にない研究者およびその予備軍が多いことがわかったからである。まず実態調査を、と「東京大学女性教官が経験した性差別」をアンケートしたら、出るわ出るわ。文系より理系、それも
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