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僕が越後妻有で大地の芸術祭を始めたワケ

地域を元気にするとはどういうことかを考え抜いた末に生まれた3年に一度の「祭り」

北川フラム アートディレクター

祭りを待つ人が増えてきた!

★磯辺行久「川はどこへいった」
昔の信濃川の川筋を黄色いポールと旗によって再現した。かつて蛇行していた川は、ダム開発やコンクリート護岸によって姿を変えた=Photo: Osamu Nakamura
拡大★磯辺行久「川はどこへいった」 昔の信濃川の川筋を黄色いポールと旗によって再現した。かつて蛇行していた川は、ダム開発やコンクリート護岸によって姿を変えた=Photo: Osamu Nakamura

 8月8日午後5時過ぎ、夕暮れというにはまだ早い十日町市中里地区、信濃川沿いの、かつては蛇行していた川筋を圃場(ほじょう)整備した田んぼの畦道(あぜみち)を、NHKの日曜美術館(9月2、9日に放映予定)の撮影でMCのお二人、小野正嗣さんと高橋美鈴さんと歩いていた際のことだった。

 若い女性が田んぼの中を歩いている。その姿が素朴すてきだった。美しくまっすぐに立つ稲穂は、今まさに緑から黄に変わっていこうとしていた。見はるかすと、田んぼの上をわたる風に旗がはためく黄色のポールが林立している。

 このあたりの信濃川は、いまや直線三面張りになってしまったが、その昔は氾濫によって運ばれたいっぱいの土砂によってできた河川敷と、そのなかを川がとうとうと流れていた。

 ふと見ると、そのなかを自転車2輪を従えて、三輪車に旗なびかせ、叫んでくる一団がこちらに向かって“進軍”している。撮影のための仕掛けなのだろうか? とすれば、実に芝居がかった、まるでフェリーニの映画の様な面白さだ――。そんなことを考えていたら、突然、しんがりの一輪が停まって女性が話しかけてきた。

 「KITAGAWA SAN?」

 聞けば、台湾の地震や四川省や日本の災害の手伝いで知り合った人たちが、この地で三年に一回開かれている大地の芸術祭のことを知り、遊びに来たという。英語での会話なので、僕はほとんどわからないのだが、楽しいらしい。皆で写真を撮って、彼らは行ってしまった。

 撮影はやり直し。

 このシーンはテレビには出てこない。だから、記録しておく。映像があるといいのになぁ。でも、こんなことがいたるところで起きているらしい。この作業をまとめてくれた小川新一さんも言っていた。「地元が元気になり、三年後の祭りを待つ人が増えてきた」と。

「地域を元気にしてほしい」

 時計の針を巻き戻す。

 平成の合併政策で、十日町市を中心とした川西町、中里村、津南町、松之山町、松代町の広域、いわゆる「越後妻有」で地域振興策をまとめようとしていた頃、新潟県庁からその依頼がきた。「地域を元気にしてほしい」という。1996年のことだ。

 だけど、地域を元気にするってどういうことか?

 今からもう20年前、1980年代の日本を狂奔させたバブル経済が崩壊し、20世紀も終わろうとしていた頃、景気が悪い悪いと言われながらも、都市全盛の20世紀という時代のなかで、都市では高層ビル建設ラッシュが続いていた。店舗やレストラン、そしてレジャー施設……。そういった企画がどんどん立てられていた。

 その一方で、日本経済はどうにもうまくいかなくなり、地域では、地方分権という名の「切り捨て」が進められた。国は3200あった自治体を1000以下にまとめたいと考えていた。地域ごとに集権を進め、地域の効率の悪さを克服しようという狙いだ。

 地方に対するばらまきのハコモノ行政に対する批判もあって、東京では、そうした狙いはもっともらしく聞こえ、それなりの支持も得ていたように思う。田舎は東京の周回遅れを走っているから。そんな感じをもってさえいたように思う。

エコロジカルプランナー磯辺行久さんとの出会い

★磯辺行久「信濃川はかつて現在より25メートル高い位置を流れていた」
1999年に1万5千年前の地層から自然堤防が発掘され、古信濃川が現在より25メートル高い位置を流れていたことが確認された。河岸段丘に足場を組み、古信濃川の水面位置を最上部に示し、500年間隔で年代ごとの水面をラインで表示した=Photo: Osamu Nakamura
拡大★磯辺行久「信濃川はかつて現在より25メートル高い位置を流れていた」 1999年に1万5千年前の地層から自然堤防が発掘され、古信濃川が現在より25メートル高い位置を流れていたことが確認された。河岸段丘に足場を組み、古信濃川の水面位置を最上部に示し、500年間隔で年代ごとの水面をラインで表示した=Photo: Osamu Nakamura

 県庁の依頼を受けた私は、エコロジカルプランナーの磯辺行久さんとお会いした。東京芸術大学を卒業した磯辺さんは、1960年代の現代日本美術界のスターだった。ところが、ベトナム反戦、ウッドストック、アースデイ、映画「イージーライダー」などに代表されるニューウェーブの波をまともに被り、美術界での活動をすっぱり止め、エコロジカルプランナーの道に入っていった人だ。1977年に『建築文化』に掲載された2回にわたる連載では、阪神淡路の活断層に警鐘を鳴らしてもいる。

 磯辺さんによれば、ある地域は、地殻、地形、土壌、天候、植生、土地利用の各層を被(かぶ)せていくことによって理解できるという。興味をひかれ、越後妻有について、その調査を依頼した。

 このときの調査は、2000年に開催された「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2000」(この時からトリエンナーレが始まった)で「川はどこへ行った」(磯辺行久)という作品に結実した。地権者28人の協力を得て、700本のポールが5メートルごと、つごう3.5キロメートルにわたって立てられることになったのである。

 初めは難色を示した住民だったが、ついにはポールを立てることに同意し、最後は「この土地では風がよく変わる。旗をつけたらよかんべ」などと提案するまでになった。このうちのお一人が、息子と孫に「じいちゃんが小さい頃、この瀬でハヤを獲っていたんだ」と嬉しそうに話しているのを見たのは、嬉しい光景だった。

 その作品が、あれから18年がたった今年、7回目の「大地に芸術祭」で再び制作された。その場所が、僕たちが撮影にきたこの美しい田んぼなのだ。

現地に入って見えてきたもの

 越後妻有に入る前、僕は、過疎高齢化で地域力が失われている、集落も少しずつ減り、お墓を守る人もいないという、机上でわかることぐらいは知っていた。しかし、現実に現地に入り、動いてみると、実態は想像を超えていた。

 現在の十日町市・津南町の越後妻有地域の広さは東京23区とほぼ同じ、760平方キロで、6.3万人が住んでいる。20年前は8万人近くあった。最盛期は、十日町市で昭和25年の10万人、津南町で昭和30年2.2万人だった。

 1996年に平成の合併施策として県が打ち出した「里創プラン」は、122あった市町村を13の広域圏に分けて合併を推進するものだった。過疎高齢化による地域力の減退に対して、何か打つ手はないのか。2014年の北陸新幹線が開通した後、ほくほく線が走っているこの地域が壊滅するのを防ぐ手立てはないのか。課題は山積していた。

 実際、200ぐらいある集落は確実に消滅していた。最盛期には900億円の売り上げがあった絹織物業界にもかつての勢いはない(現在では染め中心で100億円を割っている)。

 くわえて減反。かつては日本一の米どころとして食糧を都市の人たちを養い、かつ冬期の出稼ぎと軍役や若年労働者を都市に供出してきたこの地域は、まさに瀕死(ひんし)の呻(うめ)き声をあげているように見えた。

 他方で、こういう土地は巨大資本による開発が待っているし、巨大墓地建設の話もある。柏崎・刈羽の原発もある。私はいろいろな人の話を聞き、案内を受けて歩きながら、地域の現状と思いを自らの肌に浸み込ませていった。

★松沢有子「enishi」
旧赤倉小学校の体育館に、マチ針20万本を使ってインスタレーションをした作品=Photo: Takenori Miyamoto + Hiromi Seno
拡大★松沢有子「enishi」 旧赤倉小学校の体育館に、マチ針20万本を使ってインスタレーションをした作品=Photo: Takenori Miyamoto + Hiromi Seno

沈黙の奥にあるお年寄りたちの無念さ

 20年程前は、県内で雪害で亡くなる人が毎年4、5人はいた。夕飯の座卓を囲むと爺(じい)ちゃんがいない。「それ行け」と玄関に走ると、案の定、爺さまは屋根からの落雪に埋まっていた、という話。

 春の山菜採りの頃になると、これまた夕方になっても爺ちゃんが帰ってこない。山に探しに行く。小道に軽トラはあるのだが、ここからが大変だ。さて、どこに行ったのか。おそらく沢だろうが、幾筋もあり、行く先はなかなかわからない。事故もたびたび起きているが、みな息子にも教えない自分だけの穴場があるのだ。どこか職人の秘伝に似ている。

 昔の家は、縁側が一階にあって、爺さま婆(ばあ)さまはそこに座って、幼い子どもたちと一緒に遊び、同時に目配りをしていた。ところが、今や住宅の(単細胞的)効率化によって、爺さま、婆さまは三階に上げられてしまった。これでは、子どもたちと遊ぶことも、見守ることもできない。

 僕がこの地方に入って感じたことは、自分だけが知っている、会得したスキルや知恵を発揮できない。世の中の効率化の名の下に、お年寄りが「棚上げ」されることに対する、彼らの無念さであり、沈黙の奥にあるあきらめだった。

 郡部では都市に出て行った子どもたちが、次に故郷に帰ってくるのは自分の葬式だろうというあきらめをしているお年寄りの方が2割ぐらいはおられた。都市に出て行っても、うまくいった人は限られるのだが、いずれにせよ、核家族化はいくところまでいってしまった。

 こうしたことがらは、机上ではわからなかったことだった。お年寄りは自分に誇りをもち、社会に関わりたいと思っているのだ。一方で、生きるている限り死ぬということも受けいれている。だからこそ、生きているうちは、自分の「得意」を振るいたいのではないか。とすれば、地域の誇りとは、お年寄りの「個」と「コミュニティー」とに培われた特質を、確認し続けることではないか。

後の祭りになる前に「祭り」を

 自分に何ができるのかを考えた? 思案した末にたどりついたのが、「祭り」であった。自分たちも参加できる、腕を振るえるもの。それも一度限りではない。次の祭りが待ち遠しくなるようなもの……。

 こうして3年に1回のお祭りが準備されたのだ。「あとの祭り」になる前に。アートによる祭りひらく。21世紀を目前にした頃のことだった。

「enishi」の制作を手伝うご婦人たち(手前より80代、70代、60代、50代)。のべ400人が制作に携わった
拡大「enishi」の制作を手伝うご婦人たち(手前より80代、70代、60代、50代)。のべ400人が制作に携わった

 時代はくだって2009年の4回目の「大地の芸術祭」。赤倉という今も神楽が伝承されている古い集落(現在戸数15戸、人口33人)の小さい廃校の体育館に、松沢有子さんがマチ針20万本や一輪車、クモの巣などの小道具を使ったインスタレーション(さまざまな材料や光や音を使った空間構成)をした時のことだ。

 1枚の写真が手元にある。手前から、80代、70代、60代、50代のご婦人たちが針仕事をしている様子が映っている。ご婦人たちは、朝起きると学校にやって来て、仕事をする。昼ごはんにいったん家に帰るが、ごはんが終わると、またやって来て、夕餉(ゆうげ)に家に戻るまで、また針仕事をする。

 スライド会で僕が「時々、ご婦人たちは居眠りをしていましたが…」と言うと、「そんなことはない。一生懸命頑張ってくれました」との声があがったのは、思い出しても微笑ましいエピソードだ。反省会で、「こんな楽しいことはなかった」「毎日が楽しかった」「またやりたい、こういうアーティストを連れてきてくれ」と口々に話されたのを覚えている。

 「あとの祭り」になる前のお祭りは、ゆっくりだが、確実に地域に染みこんでいるのだ。(続く) 


筆者

北川フラム

北川フラム(きたがわ・ふらむ) アートディレクター

1946年新潟県高田市(現・上越市)生まれ。東京芸術大学卒業。アートフロントギャラリー主宰。主なプロデュースとして「アントニオ・ガウディ展」、「子どものための版画展」、「アパルトヘイト否(ノン)!国際美術展」など。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」「瀬戸内国際芸術祭」「北アルプス国際芸術祭」「奥能登国際芸術祭」の総合ディレクターを務める。