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65歳でオーケストラをつくり指揮者になった!

人生100年時代。西脇義訓さんの「好きを極める」生き方とは(前編)

丸山あかね ライター

 大学時代は週に一度チェロのレッスンに通い、ワグネルの練習は週に2回か3回。渋谷の河合楽器の一室で夕方の5時から8時くらい行っていた。その後、近くの飲食店で食事をするのも楽しみだったと感慨深く語る。

 「その店にNHK交響楽団の人達が来たんです。僕はN響に所属するすべてのパートとフルネームを記憶するほど彼らに憧れていたので、図々しくも、若気の至りというやつですね。齋藤秀雄門下の原田喜一さん(N響のチェロ奏者)に『弟子にしてください!』と直談判。でも、それが縁で原田先生から齋藤チェロ奏法を基礎から徹底的に教えていただくことができました。オーケストラのことで頭がいっぱいだったあの頃。わが青春に悔いなしという感じで、本当に懐かしいですね」

内定した銀行を断ってレコード会社へ

指揮をする西脇義訓さん拡大指揮をする西脇義訓さん

 大学卒業と共に、これまで生活のすべてだった音楽を趣味と位置づけ、社会人としての新たな一歩を踏み出すつもりだった。実際、就職も中京銀行に内定していた。ところが、である。

 卒業試験を控えたある日、西脇さんは朝日新聞で日本フォノグラム(現ユニバーサルミュージック)の社員募集広告をみつけた。これが運のつき。内定を喜ぶ父親を尻目にこっそり応募し、合格の知らせを受けて、迷わずレコード会社への就職を選ぶ。少しでも音楽の近くにいたいと思ったと言う。。父は烈火のごとく怒り、銀行からは、この時期に内定を断った人はいない、と呆(あき)れられたが、後悔はなかった。

 「本当はクラシック部で制作に携わりたいと思っていたけれど、制作する上でも営業を体験しておきたいと考えました。営業ならクラシック・レコードも商品に含まれるわけですし。でもすぐに考えが甘かったと思い知らされた。当時、フォノグラムが力を入れていたのは、ポール・モーリアなどのポップス。それから尾崎紀世彦さんなどの歌う歌謡曲。クラシックはイ・ムジチの『四季』がベスト・セラーを続けていましたが、全体の1割程度です。そのうえ配属先の名古屋で営業の厳しさをこれでもかというほど叩き込まれて……。

 あれは社会人としてというより、人生の修行時代でしたね。辞めたいと幾度も思いましたが、辞めるわけにはいかなかったんです。入社した翌年の1972年に結婚、1年後に長男が生まれていたものだから。仕事がきびしくてすっかり疲弊していたけれど、今になってつくづくと思います。職場に楽しさを期待すること自体が間違っていたなと。食べていくための仕事は給料をもらうことが目的なのであって、厳しいのが普通なんですよ」

オーケストラに救われて……

 そんな西脇さんを救ったのはオーケストラだった。名古屋市民管弦楽団に入っていた友人からの要請を受け、エキストラとして参加することになったのだ。

 「最初は演奏会に出るだけのつもりでしたが、あまりのレベルの低さに驚いて、つい意見してしまった。それならお前がやれよということになり、トレーナー(練習指揮者)も任された。しかしどうせやるならと夢中になって取り組むうちに、気づいたら人生の輝きを取り戻していました。オーケストラがどうしたら上達するかをつき詰める第一歩でした」

 やがて東京転勤の辞令を受け、同時に念願のクラシック部へ。広報が主な仕事でしたが、制作に携わったイ・ムジチによる「日本の四季」や、クリーヴランド管弦楽団の女性だけで構成されたクリーヴランド・シンフォニエッタによる「日本の詩情」がクラシック界では異例の大ヒットとなった。曰く、良い経験を重ねることができました。

 「当時の社長が、『クラシックは世の中に広まるまでに少なくても5年、10年はかかる』と言っていたことが忘れられません。実際、その通りでした。だから今、デア・リング東京オーケストラのCDが売れなくても焦燥感がないんです。こういうものだと達観していますから。それに営業時代の辛さに比べれば、大抵のことは乗り越えられると自負しています。人生に無駄はないと言うけれど、真理ですね」

「50代でしてきたことが70代で花開く」


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筆者

丸山あかね

丸山あかね(まるやま・あかね) ライター

1963年、東京生まれ。玉川学園女子短期大学卒業。離婚を機にフリーライターとなる。男性誌、女性誌を問わず、人物インタビュー、ルポ、映画評、書評、エッセイ、本の構成など幅広い分野で執筆している。著書に『江原啓之への質問状』(徳間書店・共著)、『耳と文章力』(講談社)など

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