7色のマジックのような画づくり、メロウな往年のポップス
2018年08月21日
必見!『女と男の観覧車』 ヒロインの危うい魅力――不倫、恋、嫉妬、放火癖……目を見張るような<起承転転>
『女と男の観覧車』のストーリーテリングで面白いのは、ミッキー/ジャスティン・ティンバーレイクが、作中人物兼語り手であるという点だ。ビーチの監視員席に座ったミッキーは、冒頭から観客に向かって語りかけ、観客を作中にスムーズに導入し、その後も何度かカメラ目線でセリフを発し、あるいは画面外のナレーターとなって、進行中のドラマについて手際よくコメントする(ミッキーの視点は当然、ドラマのすべてを見渡す「神の視点」ではないゆえ、彼は不完全な語り手だが)。
むろんこうした手法は、ウディ・アレンの専売特許ではない。しかし彼は少なくとも2本の傑作――『アニー・ホール』と『僕のニューヨークライフ』(2003)――で、語り手兼作中人物が観客に語りかける、という手法を成功させている(前者ではアレン自身、後者ではジェイソン・ビッグスが語り手兼主人公)。また、どんな環境にも素早く適応できる奇人を描いた傑作コメディ、『カメレオンマン』(1983)ではパトリック・ホーガンの滑らかなナレーションが、破天荒な物語を巧みにコントロールしている。さらにまた、第二次大戦後のアレンの子供時代を描いた自伝的映画『ラジオ・デイズ』(1987)や、1930年代ハリウッドの虚実を浮き彫りにした『カフェ・ソサエティ』(2016)などの佳作では、アレンがナレーターのみを務めているが、ともかく才人アレンは、<何を語るか>だけでなく<いかに語るか>についても、つねに腐心してきたシネアストだ(推測するにアレンのナレーション好きには、一人でステージに立って喋りまくるスタンダップコメディの芸人出身、ということのほかに、彼と親交のあった仏ヌーヴェル・ヴァーグの旗手の一人、フランソワ・トリュフォーの影響もあるのではないか)。
前稿で述べたように、『女と男の観覧車』のケイト・ウィンスレットの過剰な演技が、危うい魅力を放つもう一つのポイント、それは名手ヴィットリオ・ストラーロ(1940~)のカメラだ。
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