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アレサ・フランクリンの死に思う、時代との関係性

「クイーン・オブ・ソウル」は、いつの時代も「進行形」だった

印南敦史 作家、書評家

アレサ・フランクリンの死に思う



(小見出し)

「クイーン・オブ・ソウル」は「ソウル」以上の存在だった



米ワシントンで2009年1月、オバマ大統領(当時)の就任式で歌声を披露するアレサ・フランクリンさん=APオバマ米大統領の就任式で歌うアレサ・フランクリン=2009年1月、AP

 「アレサ・フランクリン、危篤と報道」

 フェイスブック経由でそんなニュースが流れてきたのは、8月13日のことだった。考えたこともなかったので非常に驚いたが、だからといってそのとき、「天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた」わけでもなかった。むしろ、複雑な気持ちだったと表現したほうが近いかもしれない。

 端的にいえば、「よくわからなかった」のだ。ショックだとか悲しいだとかいう以前に、わからなかった。そして、そんな思いを消化できないまま、彼女に対しての僕なりの思いを、同じ嗜好性を持つ人が集うフェイスブックにアップしたりしていた。

 もちろんその時点で「永くはないんだろうな」と思ってはいた。だから16日に訃報が届いたときにも、「とうとうこの日が訪れてしまった」としか思えなかった。それは圧倒的に“現実”であり、「ショックだ」とか「悲しい」というような次元を(少なくとも僕のなかでは)超えていたからだ。

時代の空気感を味方につけて

 「クイーン・オブ・ソウル」「レディ・ソウル」と呼ばれたアレサ・フランクリンは、1942年3月25日にテネシー州メンフィスで生まれ、ミシガン州デトロイトで育った。父親のC.L.フランクリンは、大きな影響力を持つバプテスト派の牧師であり、母親のバーバラ・シガーズ・フランクリンはゴスペル・シンガーである。

 しかしアレサの幼少期に両親は離婚し、彼女は父親の教会でゴスペルを歌って育つことになった。そんな環境がシンガーとしての素地を形成することになったわけだが、1961年にコロムビア・レコードからデビューしてからの6年間は不遇の時代を送ることになる。スタンダード・ナンバーなどを歌わされていたため、実力を発揮する機会に恵まれなかったのだ。

 状況が大きく変わったのは、1966年にアトランティック・レーベルに移籍して以降のことだ。同レーベルのプロデューサーであるジェリー・ウェクスラーから最高の環境を与えられた彼女は、そこで初めて「本来の自分」になれたのである。

 なお、その“環境”について、著述家のネルソン・ジョージは『リズム&ブルースの死』のなかでこう説明している。

 ジェリー・ウェクスラーは長年にわたる活動のなかでも、最も賢明な判断を下した。彼はフランクリンのレコード制作にあたり、アラバマ州マッスル・ショールズにあるフェイム・スタジオ、そしてマイアミのクリテリア・スタジオで、白人黒人をとりまぜた南部のセッション・マンたちを使って録音をおこなった。コロンビアではついに実現することのなかった、彼女の歌と互いに影響しあうサウンドがようやく得られることになった。曲はアリサのオリジナル、あるいは彼女のために書き下ろされた曲、または彼女自身が選んだ曲のいずれかで、リズム・アレンジは主として彼女が引くゴスペル・スタイルのピアノを軸につくられた。黒人の、そして後には白人も使うようになったポピュラーなスラング(“Do your thing!”[思いどおりにやれ]“Sock it to me!”[そう、その調子])が、自由に、束縛されず、自然に生きろという忠告だった時代に、これらの価値観を、フランクリンの歌ほどみごとに伝えるものは他になかった。彼女の曲はほとんどが、極めてメランコリックなラヴソングだったが、フランクリンの声は言葉で説明できないほど広い範囲の感情を伝えていた。(『リズム&ブルースの死』ネルソン・ジョージ著、林田ひめじ訳、早川書房より)

 かくして多大な支持を得ることに成功した彼女は、「アイ・ネヴァー・ラヴド・ア・マン(ザ・ウェイ・アイ・ラヴ・ユー)」(貴方だけを愛して)「リスペクト」「チェイン・オブ・フールズ」「シンク」など数々の名曲を生み出していくことになる。

 なかでも大きな意味を持つことになったのが、オーティス・レディングのカヴァー「リスペクト」だ。男性の立場から「僕に敬意を示してくれ」と訴えていたこの曲の歌詞を、アレサは「私に小さな敬意が欲しい」と女性の立場に置き換え、大きな共感を生んだのだった。

 このことについては8月19日の「天声人語」(朝日新聞)でも「1967年、フェミニズム運動が盛んになっていた時である。弾むような声に乗せた曲は大ヒットした」と解説されているが、まさに彼女はこのとき、時代の空気感を味方につけたのだ。

 そんなこともあり、1979年まで続くアトランティック・レーベル時代(特に1967年から1970年代初頭まで)は、アレサの黄金期として認識されている。だから当然のごとく、ブラック・ミュージック・シーンやリスナーの多くが「アレサはアトランティック時代」と考えているだろう。

 たしかにそれは絶対的な事実だ。しかし、それを認めたうえで、改めて彼女の立ち位置を意識してみる必要があるとも個人的には考えている。

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