デヴィッド・フォスター・ウォレス 著 阿部重夫 訳
2018年09月07日
学生、社会人だろうが、リタイアした高齢者だろうが、「教養」を求める人、気になる人がどれだけ多いかの証しだろう。就職試験の「一般教養」対策のテキストから「教養」が身につくかのような人文書(?)まで、本の刊行が引きも切らない。ものによっては、「×時間でわかる」教養もあるらしい。巷では「社会人のための教養講座」の類いもあちこちで開かれている。「教養」があればビジネスにも人生にも役に立つと喧伝される。
憧れなのか、コンプレックスからなのか、「教養」がこれだけ人を誘惑する一方で、それを学ぶ最高学府(のはず)だった大学に対しては、政府からも企業からも「実学」を重視せよとの声が強まるばかり。かねて教養学部不要論も根強く、教養課程の旗色は悪い。
一見、矛盾しているかに見える現象。だが、どちらも本来の「教養」の意味を取り違え、かけはなれた文脈での出来事だということが本書を読むとよくわかる。
『これは水です』(デヴィッド・フォスター・ウォレス 著 阿部重夫 訳 田畑書店)
日本でも、そもそも教養とはなんぞや、から始まる本も少なくないが、往々にして、中世ヨーロッパの大学の歴史や旧制中学の教育から説明されたりしてめんどくさい。もっと敷居が低い本はないのか、という向きには本書を大いに勧めたい。実に手軽。文庫サイズで、装丁はシック。本文の組みもゆるい。文体(訳文)は平易。コーヒー1杯飲んでいる間に読了できる小品。それでいて、教養についての根源的な問いについて十二分に考えさせてくれる。
もちろん「×分間でわかる『教養とは何か』」という凡百な本とは一線を画す。内容は濃い。「手軽」ではあるが、これから紹介するように、読後感は存外重い。
あっという間に読める本だから、詳細は避けて、ポイントだけ紹介しよう。ウォレスはまず、まもなく社会に出る若者たちを前にして、これからは退屈で、決まり切った日常、「クソみたいな些事」が延々と続くと語る(これはまあ、結婚式の古典的な祝辞で「結婚は人生の墓場と申しますが……」とウケねらいで始めるようなものか。いや、違うな。含意はもっと深い)。
たとえば、仕事で疲れ切っての帰宅途中、急いでスーパーに寄り、レジで長蛇の列に並ぶ。そこで何を思うか。日本の勤め人であれば、帰りの満員電車を思い浮かべてもいいかもしれない。日常への不満だったり、社会や他人への怨嗟だったり。著者は、それはわれわれがもつ「初期設定」(デフォルト)だという。つまり「僕こそが世界の中心」であると無意識に設定されていることの表れだ、と。
そのデフォルトをどう「手直し」(アジャスト)するのか。それが教養、つまり「ものの考え方を学ぶ」ことの意味なのだ。
さて、先ほどから「教養」「教養」と繰り返しているが、著者が主に使っているのはその元の言葉「リベラル・アーツ=liberal arts」である。「自由にする技芸(学問)」。平たく解釈すれば、自分を縛っているものの見方や考え方から自由にする(なる)のが「リベラル・アーツ」=「ものの考え方を学ぶ」ということだろうか。
そのために私たちにはどういう選択肢があるのか。何を「崇拝」するのか。宗教? カネ? モノ? 美貌や性的魅力? 権力? 知性?……。いずれも著者は否定する。知性すらもだ。なぜかって、これらを崇拝するのは「初期設定」のままだから……。
これは考え込まざるを得ない。そんな読み手に追い打ちをかけるかのように、この講演はこう締めくくられる。
「あなたがたが自身を啓蒙するのは一生をかけた大仕事であり、それは始まったばかりだということです。――まさに、今」
「手軽」だが読後感が重い本というのはこういうことなのだ。このスピーチが入学式ではなく、卒業式で語られたことの意味もここにある。日本で、世にあふれる「教養が身につく」といった類の「実用書」や講座がいかに噴飯ものか。大仰にいえば、21世紀の教養はこの本を読み終わったところから始まる。
なお、「これは水です/This is Water」という奇妙なタイトルの意味は、本書の早々に明かされるが、読了後にはぐっと厚みを増したフレーズとして心に残る。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。
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