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90年の『ちびまる子ちゃん』とたまと『ガロ』

さくらももこのマニアックな趣味とメジャーシーンで生き続ける覚悟

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

さくらももこさんの代表作「ちびまる子ちゃん」とエッセー「もものかんづめ」さくらももこさんの代表作『ちびまる子ちゃん』とエッセー『もものかんづめ』

“隠し味”的に混じる“毒”

 1990年は、バブルの真っ最中だった。

 前年に元号が変わった日本社会には、ひたすらに明るい雰囲気が漂っていた。世界に目を向けても、前年の11月にベルリンの壁が崩壊し、冷戦構造が完全に終了した。東欧諸国では政変が起き、民主化が進んでいった。米ソの核戦争が回避されたと、世界は安堵していた。アニメ『ちびまる子ちゃん』が大ヒットしたのは、そんな年だった。

さくらももこさくらももこさん
 さくらももこの『ちびまる子ちゃん』は、しばしば「国民的アニメ(マンガ)」と評されてきた。老若男女問わず、日本のほとんどのひとに受け入れられたという点でそうした形容をされるのだろう。日曜夕方『サザエさん』の前番組として、70年代の3世代同居の一家を描いた点も「国民的」と認識されるゆえんだろう。

 しかし、その内容は『サザエさん』と比べると、“隠し味”的な表現が多く含まれている。より平易な表現をすれば、“毒”が混じっている。

 たとえば永沢君のようなひねくれた存在や、野口さんのような陰のあるキャラクターも目立つ。また、みぎわさんは空気の読めないキャラで、丸尾くんはガリ勉でこうるさい学級委員長だ。そうした存在は、同じく「国民的アニメ(マンガ)」として愛されてきた『サザエさん』の花沢さんや、『ドラえもん』のジャイ子などと比べると、ずっと生々しい。けっして、単なるほのぼのとした小学生が描かれているわけではない。

 もちろんそれでも大ヒットしたのは、さくらももこのたぐいまれなメジャー感覚があったからだ。“毒”が単なる露悪的な表現にならず、主人公のまる子を引き立てる“隠し味”となっている。冷静に考えれば、まる子はちょっとトボけたところはあるが普通の女の子だ。彼女を引き立てるのが、個性的な周囲の存在であり、ナレーションによるシニカルなツッコミだ。

 『サザエさん』や『ドラえもん』には見られないこうしたある種のぶっちゃけた表現こそが、この作品を広く訴求させた要因だろう。視聴者はみずからの幼少期をそこに重ね、リアルな小学3年生を感じ取っていた。

マイナー文化『ガロ』との繫がり

 『ちびまる子ちゃん』のこうした“隠し味”は、さくらももこのマニアックな趣味から導かれたものだ。

ガロ」の97年8月号.一時代を画した雑誌『ガロ』=1997年8月号
 よく知られているように、登場するキャラクターの名前はマイナーなマンガ誌『ガロ』(青林堂)で活動をしていたマンガ家から取られている。花輪くんは花輪和一、丸尾くんは丸尾末広、みぎわさんはみぎわパンである。当時の『ガロ』は、白土三平が『カムイ伝』を連載していた60年代の面影はまったくなく、実験的な作品が並ぶアンダーグラウンドな雑誌だった。現在タレントとして活躍する蛭子能収や杉作J太郎などの奇っ怪な作品が毎月掲載されており、おそらく部数は1万部もなかったのではないか。

 「国民的」と評されるアニメが、なぜかそんなマイナー文化と繋がっていたのだ。『ちびまる子ちゃん』を通してこの丸尾末広や花輪和一を知ったひとは、おそらく仰天したことだろう。彼らの作品は、エログロとナンセンスだからだ。

 こうした『ガロ』から影響を受けたであろう表現も、さくらももこ作品ではチラホラ見受けられる。その筆頭はやはり『神のちから』や『COJI-COJI』だろう。

 たとえば『COJI-COJI』は、「メルヘンの国」を舞台とはしているものの、主人公のコジコジを中心に奇妙なキャラクターによるシュールな物語が展開される。たとえば1巻の「学級劇 ちびまる子ちゃん」の回では、登場人物たちが『ちびまる子ちゃん』の劇をやるというもの。まる子に何回も会ったことがあったと言うコジコジは、彼女のことをこう評す。

 「あの人バカだけど すこしはいい人だよ」

 一事が万事この調子なのである。大ヒットした『ちびまる子ちゃん』に対し、そこでできない表現を『COJI-COJI』で放出させていたようにも思える。

『紅白歌合戦』の奇妙な光景

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