隠岐さや香 著
2018年10月01日
経営している田畑書店という出版社でこの夏、『これは水です』という新刊を出した。デヴィッド・フォスター・ウォレスというアメリカのポストモダン作家の卒業式スピーチを翻訳したものである。部数がそう出ているわけでもないのに、ネットでの反応などを見ると思いのほか若い世代に理想的な読まれ方をしていて、ちょっと驚いている。
……と、これは宣伝のために書き起こしたわけではなく、本書を手に取った理由が、ウォレスが語っているリベラルアーツに深く関係していることを言いたかったからだ。
『文系と理系はなぜ分かれたのか』(隠岐さや香 著 星海社新書)
実に直截的なタイトルで、その意味するところ以上のものを求めずに軽い気持ちで読み出したのだが、途中で襟を正した。
結論から先に言ってしまうと、これはメガトン級のスゴい本である。新書判で256頁。これだけのボリュームにここまで広くて深い内容を詰め込んだ本に、最近とんとお目にかかったことがない。ことに1、2時間ほどで読み通せて、読後タイトル以上の何物も残らないような本が多い新書というジャンルのなかにあって、本書はダントツである。
本書の魅力をこの紙幅のなかでどこまで伝えられるか心許ない。なぜなら様々なテーマに発展可能なエレメントが圧縮ファイルに詰まっていて、解凍したらおそらく単行本5、6冊にまでなりそうだから。
それゆえに、決してスラスラと読み飛ばせる代物でもない。特に中世からの欧米諸国の大学の変遷を扱った第1章は、歴史の教科書のように固くて読み進めるのに少々忍耐がいる。ただ以下のような記述に出会うと、意識が急に現代とリンクしてハッとさせられる。
改革前の大学は、専門職業(聖職者、弁護士、医師)に直結した上級学部(神学、法学、医学)と下級学部(主に哲学)から構成され、後者が低い位置付けにありました。/カントはそこで、社会的な『有用性』に奉仕する前者に対し、あらゆる統制から自由で理性的な判断を下す後者の重要性を訴えました。
そうか、カントさんも!
「〈有用性〉と大学」というのは実に古くて新しいテーマであり、本書の大半は大学教育の歴史的変遷を辿っているのだが、常に覚醒させられるのは、「いまここ」で起こっている教育の問題であり、これからの社会をどう作っていくかというリアルな話である。
実際、大学教育を考えることは、まさに社会全体の問題、ひいては政治の問題を考えるに等しいのだと、ここまではっきりと意識されられたことはない。
特に近代以降の「科学技術政策」について、イノベーション政策1.0、イノベーション政策2.0、イノベーション政策3.0と段階を分けて考察されているところは圧巻で、1980年代以降、いいことがまったくない日本社会と経済は、イノベーション政策2.0で失敗し、しかもいまだにそのレベルにとどまっているせいなのだと説明されると、はなはだ腑に落ちて快感でさえある。
世界はもはやイノベーション政策3.0の段階、つまり「先端科学・技術の市場化可能な成果への集中的投資が、経済的な不平等という問題を悪化させて」いて、「その不平等は、自然環境問題に劣らない危機的な国際問題であるとの認識が今、急速に広まっている」状態なのに、なぜに原発にこだわり、この先リニアモーターカーまで通そうとしているのか。現在、日本政府がとっている政策は80年代から進歩がないどころか、さらに歴史を逆行しようとしているということがよくわかる。
この(イノベーション政策3.0への)方向転換は何を意味するのでしょうか。一つ言えるのは、もしこの路線が定着すれば、社会的不平等、失業、気候変動といった社会的、環境的課題が経済成長と同等の重要性を持ち、そのために世界中の知性が動員される時代が来るということです。そして、人文社会科学と自然科学・技術をつなげられる人材、すなわち「STEAM」(STEM+Arts)の視点がこれまで以上に重視されるでしょう。
文系と理系の歴史を同時に扱った本は、著者の知る限り世界にまだないという。「そのような未開拓の領域を進むにあたり、一つの大まかな見取り図を示すことを目指した」という本書は、その目的を十全に達していると思う。
「この本を書くことは、私にとって、長い旅のようでした」
と著者は「おわりに」に記す。実に、新書という限られた器の中でその長旅の醍醐味を読者に味わわせてくれるのは、ひとえに著者の研鑽と努力の賜物であろう。
本書の提示する世界の広大さと甚大さを思うと、「文系と理系はなぜ分かれたのか」というタイトルはやや軽すぎる気もするのだが、
「(この長い旅を)なんとか続けて来れたのは、私自身が、遙か昔、高校生の時、受験のため文系と理系を選択することに戸惑いを感じた思い出があったからでしょう」
という素朴な、だからこそ強靭な動機に触れると、やっぱりこのタイトルがもっともふさわしかったのだと、妙に納得するのだった。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。
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