大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者、田畑書店社主
1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
※以下の原稿を編集部に渡した直後、「新潮45」休刊のニュースが入った。そのことへの賛否はともかく、この原稿の内容に関しては変える必要をいささかも感じていないので、そのまま掲載していただくことにする。
ただ付け加えるとすれば、新潮社においては自らのアイデンティティーをより大事に考えていただきたい。そのことが出版界の劣化を防ぐ唯一の方法だと考える。また、新潮社は報道陣の取材に対して、10月号のゲラを読んでいたのは編集部のみと答えた。問題になった特集の原稿は、もしかしたら校閲を通っていなかった可能性も考えられる。とすれば、文中「編集者としての矜持」としたが、それ以前の問題で、読者からお金を貰っている以上ちゃんと仕事をしろ、というだけの話である。
また、執筆者である小川榮太郎氏に関しては何をかいわんや、自らの書き手としてのレベルの低さをぜひとも自覚していただきたい。そしてより大きな怪我をしないうちに、この世界から身を退いていただくことを切に祈るのみである。
その昔、失業中のこと、よく臨時のアルバイトで雑誌の出張校正に駆り出されて、印刷所や出版社に通った。今はもう出張校正などという習慣は出版界からほとんど消えてしまったが、その頃はまだ、山谷や西戸山公園の「寄せ場」よろしく、職を失った編集者が市ケ谷駅あたりに集められて、大日本印刷に向かったりした。むろん校正者として専門的な教育など受けたことはないが、雑誌編集の現場を何年かやっていれば、そこそこの校正力は身につくものである。
というわけで、今回、実に久しぶりに純然たる校正者の立場にたって、ある印刷物を点検してみた。その印刷物とは「新潮45」10月号に掲載された小川榮太郎なる「文藝評論家」の「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」と題された文章である。
最初にざっと目を通して全体の意味をつかもうとするのだが、内容の酷さに吐気を催したのは置いたとしても、文章としてどうもすんなりと頭に入ってこない。それは大上段に構えたあまりに古風で「文学的」な文体によるのかもしれないが、どうやらそうでもなさそうだ。