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[書評]『文字と組織の世界史』

鈴木董 著

松本裕喜 編集者

われわれはどこへ行くのか

 じつはこの本を読み始めてから何度か、もう読むのをやめようかと思った。ラテン・ギリシア・キリル・アラビア・梵字・漢字など世界の主要文字とのかかわりで文明とそれを支える「組織」(国家などの支配体制・統治機構)が描き出されているものの、その文化に触れるところは少なく、教科書や学参を読んでいるような味気なさを感じたからだ。

『文字と組織の世界史――新しい「比較文明史」のスケッチ』(鈴木董 著 山川出版社) 定価:本体2000円+税『文字と組織の世界史――新しい「比較文明史」のスケッチ』(鈴木董 著 山川出版社) 定価:本体2000円+税
 しかし読書に忍耐は必要である。我慢して読み進めると、本書は言語・文字・宗教を切り口にして古代メソポタミアから現代までの数千年にわたる世界の歴史を俯瞰したうえで現代そして未来を展望しようとした、意欲的な「世界史」であることに気が付いた。

 (唐突な形容だが)この本は魚の粗煮のような料理の仕方で数千年の文明の歴史を記述している。つまり思想や芸術・文化、技術などの文明の「身」の部分をすっぱり切り落として、文明や大国の興亡とそれを支える言語や宗教などの「骨」の部分をしっかりと書き込んでいるのである。

 以下、本書の描く世界史の一端をスケッチしてみる。

 最初に文字が書かれたのはメソポタミアの楔形文字シュメール語であった(紀元前3100年頃)。シュメール人は軟らかい粘土板の上に葦ペンで文字を刻み込んだため楔形の文字になったと著者は推測する。

 この後エジプトで象形文字ヒエログリフ(神聖文字)が生まれた。料紙にはパピルス紙が使われ、葦ペンとインクを使って文字が書かれた。そしてヒエログリフの簡易体のシナイ文字が表音文字化してフェニキア文字、さらにアラム文字が生まれた。フェニキア文字とアラム文字は漢字をのぞくすべての文字の先祖とみなされているという。

 西欧世界の政治的モデルと目されるアテネなどのギリシアのポリスは「都市国家」と呼ばれるが、その都市国家の住民のほとんどは農民であり、集住地の周りには農地が広がっていた(こういうハッとするような知見が随所に盛り込まれているのも本書の魅力である)。

 ギリシア人が文字をもつようになったのは紀元前8世紀中葉で、フェニキア文字をもとにして作られた。その後のローマ帝国はギリシア文字をベースにラテン文字を創出し、ラテン語を公用語とした。ローマ世界ではギリシア語もラテン語に次ぐ共通の言葉として普及した。キリスト教の聖典『新約聖書』はギリシア語でつづられている。

 395年、ローマ帝国は東西に分裂、476年には西ローマ帝国が滅亡したが、以降ローマ・カトリック教会のもとでキリスト教の布教が進み、ラテン語を共通語とする「ラテン文字世界」が西欧の地に形成された。

 一方、東ローマ帝国はビザンツ帝国として生き残った。ビザンツ文化のもとでギリシア正教の布教が進み、バルカン半島、アナトリア、スラブの地に「ギリシア・キリル文字世界」が形成された。キリル文字はギリシア文字をベースにしている。

 インドで起こったインダス文明は紀元前18世紀ごろ突然滅んだ。発掘されたインダス文字は未解読のままであるという。その後西北インドに進出したアーリア人の言語サンスクリット(梵語)をつづるためにブラフミー文字が用いられ、バラモン教から発展したヒンドゥー教の聖典はサンスクリット語で書かれた。前5世紀に興った仏教はインドでは衰えたが東南アジアへ伝わり、サンスクリットを簡略化したパーリ語でつづられた(「梵字世界」)。

 中国の黄河文明は紀元前1500年代の殷王朝で甲骨文字が生まれ、前11世紀の周王朝のもとで「漢字」に発展した。紀元前221年、秦の始皇帝は貨幣と度量衡とともに漢字の書体を統一して「漢字世界」のもとを作り、続く漢の時代に朝鮮半島・日本列島・ベトナム北部に及ぶ漢字文化圏が形成された。

 さらに618年、鮮卑(トルコ系騎馬民族)系ともいわれる李淵の立てた唐朝は、西域から中央アジアに勢力を伸ばし、ササン朝ペルシアと版図を接した。

 そして7世紀、アラビア半島でムハンマドがイスラム教を創始、7世紀半ばから8世紀半ばの「アラブの大征服」を経てかつてのローマ帝国南半部・ササン朝ペルシア全土がイスラム帝国となり、「アラビア文字世界」が生まれたのである。8世紀から15世紀にかけて、アジア・アフリカ・ヨーロッパの交易と交通の中心はイスラム世界だった。

 こうして西欧キリスト教世界の「ラテン文字」、東欧ギリシア正教世界の「ギリシア・キリル文字」、南アジア・東南アジアのヒンドゥー・仏教世界の「梵字」、東アジア儒教・仏教世界の「漢字」、イスラム世界の「アラビア文字」の五大文字世界が定着し、それは現代にも続く世界の枠組みだと著者はみている。

 これまで世界史と言えば近代文明の覇者西欧を中心とする世界史であった。著者はこの本で世界の文明・文化の歴史的変遷を「文字世界」というフィルターを通して展望し、西欧中心でない、新たな「世界史」の見取り図を描こうとしたという。

 第二次大戦後の歴史の記述、とりわけ現代に続く問題の解析には力が入っていると思った。著者によればパレスティナは7世紀半ばにアラブ・ムスリムの支配下にはいったが、ユダヤ教とキリスト教徒との大きな紛争は起きていなかった。オスマン帝国の解体後のユダヤ人の大量の流入と1948年のイスラエルの建国によってイスラムの伝統的な「統合と共存」のシステムが破壊され、以降パレスティナは「紛争のちまた」と化したのである。

 また1991年のソ連の崩壊後、東西の冷戦は終結し東欧諸国の自由化が進む一方で「民族主義」としてのナショナリズムが噴出、「アラビア文字」世界ではハマス、タリバーン、アル・カイーダ、イスラム国などのイスラム原理主義的な宗教イデオロギーが台頭し、戦火が絶えない状態となった。

 タリバーンは1979年のソ連軍のアフガン侵攻後パキスタンに亡命したマドラサ(イスラム学院)の学生たちが組織した「ムスリム全学連」だとの解説を読んで、他者の理解を拒否しているような、この集団の過激さが少しわかった気がした。

 こうしたナショナリズム克服の試みであり、「ラテン文字世界」統合の試みであったEUも、イギリスの離脱表明、シリアなどからの大量の難民の流入で大きな軋みを見せている。

 著者の予見するように、これからは「ラテン文字世界」西欧(アメリカとEU)の覇権に替わって「漢字世界」の中心たる中国と「梵字世界」の中心インドが世界経済の二大主柱になるのだろうか。

 (ない物ねだりかもしれないが)「組織」については、中国やローマ、イスラムなど巨大帝国の統治・官僚機構だけでなく遊牧民や部族集団などの「組織」も取り上げて、集団内の権力構造の種々相を紹介してほしかった気がする。

 冷戦の終わりは予想に反して「歴史の終わり」などではなかった。世界はいま何とも予測しがたい過渡期にあるのかもしれない。そのことを再認識させてくれる本だと思った。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。