大槻慎二(おおつき・しんじ) 編集者、田畑書店社主
1961年、長野県生まれ。名古屋大学文学部仏文科卒。福武書店(現ベネッセコーポレーション)で文芸雑誌「海燕」や文芸書の編集に携わった後、朝日新聞社に入社。出版局(のち朝日新聞出版)にて、「一冊の本」、「小説トリッパー」、朝日文庫の編集長を務める。2011年に退社し、現在、田畑書店社主。大阪芸術大学、奈良大学で、出版・編集と創作の講座を持つ。フリーで書籍の企画・編集も手がける。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
「新潮」11月号で、高橋源一郎さんの「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」を読んだ。本人のツイッターで予告を見て、心待ちにしていたものだ。
読了し、唸った。期待以上、どころか、期待の次元をはるかに超えた、とてつもない文章なのだ。たった5ページ、6000字ほどですべてを言い尽くしている。
そして驚くべきことは、この「たった5ページ」を書くために、高橋さんは、「アマゾンで手に入れることができる小川さんの著作をすべて購入」し(もちろん自費で)、4日間ですべてを読んだというのだ。たいへんな労力である。「たった5ページ」のためになぜそんなことをするのか?
「それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである」
この1行ですでにだいぶ参ってしまっていたが、全文を読んでさらに感銘を受け、思わず呟いた。「これが作家だよな」。
作家であるということは、まさにこういう振る舞いをすることなのだ。
また同時に、小川榮太郎という「文藝評論家」のこれからを思ったとき、その前途多難に憐憫に近い情を抱いた。
高橋さんはその著作を全部読んで、次のような結論にたどり着く。
「ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し『他者性への畏れや慮りを忘れ』ない『小川榮太郎・A』だ。そして、もうひとりは、『新潮45』のような文章を平気で書いてしまう、『無神経』で『傍若無人な』『小川榮太郎・B』だ」
おそらく今後、小川氏が物を書き続けるとすれば、『小川榮太郎・A』か『小川榮太郎・B』のどちらかを扼殺しなければならない。そして苦渋の選択を経てどちらかを殺したとしても、果たしてそこに読者がいるかどうかは、また別の話なのだ。