2018年10月10日
「新潮」11月号で、高橋源一郎さんの「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」を読んだ。本人のツイッターで予告を見て、心待ちにしていたものだ。
読了し、唸った。期待以上、どころか、期待の次元をはるかに超えた、とてつもない文章なのだ。たった5ページ、6000字ほどですべてを言い尽くしている。
そして驚くべきことは、この「たった5ページ」を書くために、高橋さんは、「アマゾンで手に入れることができる小川さんの著作をすべて購入」し(もちろん自費で)、4日間ですべてを読んだというのだ。たいへんな労力である。「たった5ページ」のためになぜそんなことをするのか?
「それは、おれにとって最低限の、相手へのリスペクトの表現なのである」
この1行ですでにだいぶ参ってしまっていたが、全文を読んでさらに感銘を受け、思わず呟いた。「これが作家だよな」。
作家であるということは、まさにこういう振る舞いをすることなのだ。
また同時に、小川榮太郎という「文藝評論家」のこれからを思ったとき、その前途多難に憐憫に近い情を抱いた。
高橋さんはその著作を全部読んで、次のような結論にたどり着く。
「ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し『他者性への畏れや慮りを忘れ』ない『小川榮太郎・A』だ。そして、もうひとりは、『新潮45』のような文章を平気で書いてしまう、『無神経』で『傍若無人な』『小川榮太郎・B』だ」
おそらく今後、小川氏が物を書き続けるとすれば、『小川榮太郎・A』か『小川榮太郎・B』のどちらかを扼殺しなければならない。そして苦渋の選択を経てどちらかを殺したとしても、果たしてそこに読者がいるかどうかは、また別の話なのだ。
ところで、前述の高橋さんの予告ツイッターのなかで、休刊の原因になった「新潮45」10月号に掲載された小川氏の文章が、ちゃんと校閲を通っていたのだと知った(なぜなら、そのときと同じ校閲の担当者に、高橋さんは「泣かされた」というのである)。
となると前稿で書いたように、やはり校閲が疑問点などを指摘した「エンピツ」を潰したのは、編集部あるいは筆者ということになって、改めて暗澹たる気分に陥るのであるが、それはさておいて、実はあの文章のなかでたったひとつだけ頷いた箇所があったことを告白しておく。
「『朝日新聞を叩く』『嫌韓本を書く』となれば、一定のメンバーが喜び勇んでその言論戦に馳せ参ずる。手堅いマーケット=支持層があり、安全地帯からどれだけ『敵』を悪し様に語っても許される構図が確立しているからだ」
なんだ、ちゃんとわかっているではないか。
「WiLL」「月刊Hanada」「正論」そしてこのところの「新潮45」……いわゆる右翼雑誌に集まる書き手、およびそれに準じて出版される単行本の著者が、「安全地帯から『敵』を悪し様に語っても許される構図」にあること。それを小川氏は「プロレス型言論戦」というが、それはあまりにプロレスファンに失礼で、要するに似たもの同士が寄り集まって精神的マスターベーションを繰り返している場所だと、当の書き手たちも分かっているのである。
けれどもそのなかにあって最も快楽を貪っているのは、実は雑誌の編集長であることに「当の書き手」たちはどれほど自覚的なのか。
「雑誌は編集長のもの」とよく言われるが、実際現場に立ってみると、編集長というのは全権を握っていて、ほとんど独裁者として振る舞ってもどこからも文句を言われない存在であり、むしろ編集長が独裁者であった方が面白い雑誌になるということが身をもって知れる。
だからこそ出版社は「編集権の独立」を大切にする。そしてその代償として、編集長は雑誌のすべてにおいて相応の責任を負うことになる。それは営業成績についてもそうだし、何よりも雑誌に掲載された記事のひとつひとつ、一文一文に責任をもつ。
そこで再び「新潮45」10月号に戻ってみる。すると小川榮太郎氏の文章以外にも疑問に思われること、少なくとも読者に対して不親切な部分があることが目につく。
たとえば特集の巻頭にある藤岡信勝氏の文章。筆者は「新しい教科書をつくる会副会長」であり、右派論客のなかでは重鎮なのだろう。しかし、これほど分かりづらい文章はない。
この文章、まず冒頭で、騒動の発端となったツイッターを発した尾辻かな子議員(立憲民主党)は杉田水脈議員の文章を誤読しているという。けれども本当にそうか。
まず藤岡氏は、「子どもを持たない、もてない人間は『生産性』がない」などと、杉田議員はどこにも書いていない、という。確かにそれそのものの文章は存在しない。
「杉田氏が書いたのは、①税金という公的資金を投入するかどうかという社会的決定の文脈の中で、②公的資金を少子化対策費の枠で支出するかどうかの妥当性に関して判断する基準として、③LGBTの人たちについて、「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と位置づけられる、というだけのことだ」
そして「杉田氏は『子供を持たない、もてない人間』一般のことなど論じていない」と言う。が、果たしてそうだろうか。
税金を投入する対象となる、という価値判断をする上で、「子供を作らない、つまり『生産性』がない」ことが基準となる以上、一般論であろうがあるまいが、それはLGBTの人たちに限らずあまねくすべてのカップルに適応されるべきものではないだろうか。もしこれがLGBTの人たちのみに適応される基準であったとすれば、それこそが「差別」ではないか。
尾辻議員の解釈が「誤読である」という藤岡氏の理屈は、どこか「ご飯論法」を思わせる。もっと言えば、明らかにそうとしかとれない失言に対して「誤解を与えたとすれば」という常套句を繰り返す政治家と同質なものを見る。
それから次の部分。
「子供の有無は、個々の人にとっては偶然であったり、意図的選択の結果であったりするだろうが、いずれにせよ、その人たちの『生き方』の評価など、杉田氏はしていないのだ」
ここには、「性的指向」を「嗜好」と捉え、「子どもを持てない」というある種フェイタルな問題を、「生き方」という選択可能な問題にすり替えている点で、小川氏の認識に通ずるものがある。
また、藤岡氏は論の終盤に入って、アメリカの連邦最高裁判所が2015年6月に下した「同性婚を禁じた州法を違憲とする判決」について、LGBT運動関係者の間で盛んに議論されているのは、その判決への称賛ではなく批判である、として次のように述べる。
「それはこういうことだ。異性愛者の結びつきを結婚として社会的に承認し保護するということは、同性愛者の結びつきを排除することだ。これは差別であり不当なことだから解消し、同性の結婚を認めるべきだという主張となる」
これ、わかりますか?
ここには明らかに2段階くらいの論理のすっ飛ばしがあって、まずはこれが判決そのものに対するLGBTの人たちの議論の内容なのか、あるいはアメリカか日本に既に存在する「判決に対する批判」についての議論なのかがわからない。しかもその枕に付された、「外部の目から見ると不思議に思われるかも知れないが」という修飾節がますますそれを不分明にしている。
その不分明さが、さらに次のややこしさを引き寄せる。すなわち、「異性愛者の結びつきを結婚として社会的に承認し保護するということは、同性愛者の結びつきを排除することだ」という認識は、いったいどこに存在するのか。
果たして判決自体にあるのか、判決に対する批判にあるのか、あるいはそれについてのLGBTの人たちの議論の中にあるのか。
そこが曖昧なので、以下に続く、「この論理はとてもよく切れる万能のナイフなので、自分自身をも切ってしまう」「結局、この問題の最終的解決は、婚姻制度の廃止ということに行き着く」という、おそらくこの文章全体の「論理のへそ」が、いかにも牽強付会に感じてしまうのだ。
藤岡氏は産経新聞社系のオピニオンサイト「iRONNA」(9/28配信)のなかで、「新潮45」の編集長、若杉良作氏が自分にとっていかに献身的な編集者だったかを述べる。おそらく担当編集者としてはそうだったろう。けれども
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