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[書評]『医療現場の行動経済学』

大竹文雄、平井啓 著

井上威朗 編集者

命がけの場面でも、私たちの選択は不合理だった

 2年以上前、国際情報メディアに在籍していたとき、行動経済学の本をここで書評したら、その本の著者が昨年(2017年)ノーベル賞をとりました。

 そんなこともあって、私は「行動経済学にくわしい人」と思われて周囲から頼りにされるようになりました――というのは半年前、一瞬の出来事でした。

 もともと浅薄な知識しか持ち合わせない平凡な編集者が、そんな急にアテになる存在へとブレイクするわけはないのです。

 たとえば「プロスペクト理論ってどんな感じなんですか?」と訊かれても、「(その理論を説いた)カーネマンの本は流し読みだったので……ゴニョゴニョ」と言い訳しながら逃げるしかありません。

 ということでバケの皮ははがれ、学芸書へと異動いたしました。あらためて上っ面ではない知識を勉強し直すことになった昨今です。

 さてどうするか。専門書をガンガン読みこなす知的体力がないクセに、いまやその専門書の著者に原稿を依頼しなければならない仕事なわけで、どんな本を読んで企画を仕込んだらいいか悩みどころです。入門書や概説書は心強い味方ですが、それだけでは同じことの繰り返しになりそうです。

 困ったので先輩方(年上に限らず、いい仕事をしてきた人)に相談します。すると助かるものですね。「アンソロジーの企画を読むといいぜ。いろんな著者の実力も見れるし」とか「理論を現場で活用してる人が書いたのがいいよ。読者に近いところからの知見があるからね」とかいったアドバイスをもらえました。

『医療現場の行動経済学――すれ違う医者と患者』(大竹文雄、平井啓 著 東洋経済新報社)定価:本体2400円+税『医療現場の行動経済学――すれ違う医者と患者』(大竹文雄、平井啓 著 東洋経済新報社) 定価:本体2400円+税
 こうして読んだのが本書です。すぐれた経済学の書き手である大竹先生を、「日本行動医学会」に平井先生が呼んだのが企画のスタートらしく、そこから数多くの医療従事者と研究者たちが討論を重ね、分担執筆して本書が練り上げられたようです。現場目線からのアンソロジーというわけで、ありがたい企画ですね。

 この種の企画がありがたいのは、「大勢が共著者になっている企画を編集するのはムチャクチャ面倒」という編集者側の事情もあります。

 著者たちの文章力がバラバラなので、一定の水準にまとめるのが大変、なんてのはまだ序の口。だいたいにおいて、著者同士での対立がまとまらないまま意見が食い違う原稿があがってくるので、それをどうにかしないと、原稿がそろっても本自体が成り立たないのです。この折衝が大変でして……。

 個人的な記憶をたどっても、こういう企画を編集するプロセスが楽しかったことはそんなにありません。それゆえ、読ませてもらうだけでありがたや、という気持ちになってしまうのです。

 そして本書は、おそらく編著者と編集者が猛烈に働いたからだと思うのですが、とても高いレベルで仕上がっています。

 「命がかかっている医療現場であっても、人が合理的ではない選択をしてしまうのはなぜか」

 これが本書の大きなテーマなのですが、それに対して19人いる医療関係の著者が、みな同じ方向を向いた原稿を仕上げてきているのです。

 そこに、不合理な選択をしてしまう患者(やその家族)が悪い、という視点はまったく存在していないのです。どういうことか。

 「自分の体なのに、治療を受けたらどうなるのか考えるのが怖くて方針を決められない」
 「延命治療なんてゴメンだと言ってた人が、いざとなると逆のことを言い出す」
 「まだ子供たちに多くのカネがかかるので死ねない、という理由で、効果の望めない代替医療に巨額のカネを使う」
 「亡くなったあと、ああしとけば良かったと(明らかにそんな選択肢を選ぶつもりなどなかったのに)遺族が後悔しまくる」

 たとえばこのような、まさに不合理な局面が本書で紹介されるわけですが、これに対して「患者たちがアホだからだ」的な解釈はこれっぽっちもなされないのです(ごく一部に、本当はそう言いたいであろうに我慢しているっぽい著者も見受けられましたが)。

 では患者はなぜ不合理な選択をするのか。それは医者の側も実は不合理な選択をしているからであるし、双方ともその選択は行動経済学の理論を適用することで説明できるのだ、ということなのですね。

 こうした主張を実証するために、本書はまず行動経済学のさまざまな理論を簡潔に説明してくれます。たとえば「プロスペクト理論」は、「『生存率90%の手術』と『死亡率10%の手術』だったら同じことなのに、大半の患者が前者を望む、という理由を説明する理論」だというのです。なるほどです。

 そのうえで、医療現場のさまざまな局面で、行動経済学を使って患者と医者の行動を分析し、どうしたらより合理的な選択が導けるか、本書の著者たちは真剣に考えています。

 そこで有力なのが、有名な「ナッジ」のようです。たとえばがん検診の受診をうながすために配布するリーフレットの表現を、ナッジを意識したものに変えるだけで劇的に受診率を上げることができる、という事例が紹介されています。

 読んでいると、本書のなかでも乳がん検診についてナッジの事例を分析した節の原稿はいい出来でした。これは新たな著者候補を発掘できたか……と思って巻末のインデックスを見ると、すでに有名な著者(ちなみに石川善樹氏)だったのでがっかりです。

 ということで安易に仕事に役立てるもくろみはついえているのですが、本書を読んだおかげで「命がかかっている」からこそ、人がかえって不合理な選択をしてしまうというカラクリを、さまざまな角度から知ることができました。

 人間の選択というのは本当に奥が深い。あまり命がかかっていない編集という仕事での選択も、それなりに奥が深いのかもしれません。

 とりあえずは人から難しいことを訊かれても、知ったかぶりで答えるという選択はとらないようにします。素直に知らないのは知らないと答え、行動経済学なら本書を読んだほうが早いよ、と言うことにします。

 それが合理的な選択ではないとしても、なぜその選択になるのか説明できるためには行動経済学を知ったほうがいい、というわけで……見事に話をループさせることができました。今回はこれにて失礼いたします。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。