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[書評]『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』

ガブリエル・ガルシア=マルケス 著 木村榮一 訳

駒井 稔 編集者

人間に対する本質的な洞察に満ちた東欧ルポルタージュ

 「冷戦て何? ソ連なんて国は知らない。そんなの古いよ。生まれる前の事でしょ」。若い世代の声が聞こえてくるような気がします。なぜ今、東西冷戦下の東欧やソ連を描いたルポルタージュを読む必要があるのか。たとえ筆者があの偉大な作家・ガルシア=マルケスだとしても、違和感を持つ人がいても不思議ではありません。しかし歴史意識の希薄さが、必ず災いをもたらすのは歴史の教えるところではないでしょうか。特に我が国では。

『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』(ガブリエル・ガルシア=マルケス 著 木村榮一 訳 新潮社)定価:本体2200円+税拡大『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』(ガブリエル・ガルシア=マルケス 著 木村榮一 訳 新潮社) 定価:本体2200円+税
 本書の原稿は1957年、ガルシア=マルケス30歳の時に書かれました。この記録は柔軟で鋭い文学的感性の持ち主のみが書きうる優れた紀行文学でもあると思います。

 最初に友人2人と車で訪れるのは東ドイツです。しかし入国してすぐに入ったレストランで彼らが見たのは、共産主義国家に生きる人々の衝撃的な姿でした。

 「私はそれまで、朝食をとるという、日常生活の中でもっとも単純な行為をしているだけなのに、あれほど悲しげな顔をした人たちを見た覚えがなかった。ぼろぼろの服を着た百人ほどの男女が何とも言えず悲しそうな顔で、湯気の立ち込める食堂でひそひそしゃべりながら山のようにあるジャガイモや肉、目玉焼きを食べていたのだ」

 東ドイツのみならず、ガルシア=マルケスは訪れた国々に生きる市井の人々と積極的に交わり、彼らの姿を実に見事に活写します。

 まだ壁が本格的に建設される前の多少は牧歌的なベルリンに滞在中、モスクワを訪問する許可が出ます。しかしワルシャワの国際映画会議にオブザーバーとして出席することになったガルシア=マルケスは、友人とともにまずチェコスロヴァキアを訪れます。チェコの印象はとても良いのです。レストランは明るく清潔で、トイレも西ヨーロッパのどの国よりも清潔。軍人ですら市民に溶け込んでいる。チェコは秘密警察に統制されている気配を感じさせない唯一の社会主義国であると感じます。

 友人にはヴィザが発行されなかったのでガルシア=マルケスは、単独でポーランドに向かいます。首都ワルシャワは東ドイツと同じで、商店にはほとんど品物が並んでいない。しかしなぜか書店だけは別世界です。

 「豪華で清潔な、驚くほど近代的なその店舗は大勢の人でにぎわっている。ワルシャワは本であふれ、価格も信じられないほど安い。人気作家は何といってもジャック・ロンドンである」

 そのあとガルシア=マルケスと使節団は20歳のアナというポーランド人看護士と一緒にアウシュビッツを訪問します。アウシュビッツでおぞましい展示を見ているうちに怒りがこみあげてきて落涙しそうになり、犠牲になったたくさんの人々の写真が飾られている場所に行くと、同行したアナが、髪の毛をそり落とされた性別不明の人物を見ています。これは男性か女性かと問われるとアナは「男性よ」と答え、「あれは私の父です」と告げます。ガルシア=マルケスはその時の自分の感情をまったく書いていません。その深い沈黙の意味を考えざるをえません。

 ソ連に向かう列車の食堂車では、隣からスペイン語の会話が聞こえてきます。1937年にスペイン内戦で孤児になった子供3万2000人がソ連に保護されたのですが、そのうちの一人でした。マドリッドからの帰途にあったスペイン人はロシア人の妻と二人の子供と一緒でした。ガルシア=マルケスはフランコ政権には耐えられなかった男性が、スターリン体制下では何とかやってきたのだろうと考えますが、なんとも印象的なエピソードです。

 最後に訪れたハンガリーは動乱から1年弱。ひどく荒廃している現状に驚きます。しかしブダペストの下町の酒場に立ち寄ると、反乱の芽がまだ生きていることに気づくのです。人々は外国人を見ると口を閉ざしますが、こういう時はトイレに入るしかないのだと悟ります。

 彼がそこに見つけた落書きは指導者ヤーノシュ・カーダールに対する呪詛の言葉でした。「人民の暗殺者カーダール」「裏切り者カーダール」「ロシア人の番犬」。人々の本音が書かれてあったのです。

 東欧とロシアの共産主義体制は、30年後に無残に崩壊しました。1957年当時の実態を伝えるこのルポルタージュには、理想が実現されたはずの国家に生きる人々の姿があからさまに描かれています。人間という不可解な存在に対する本質的な洞察は、21世紀の今でも読まれるべき普遍的な価値があると思います。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。

*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

駒井 稔

駒井 稔(こまい・みのる) 編集者

1979年、光文社入社。1981年、「週刊宝石」創刊に参加。1997年に翻訳編集部に異動になり、書籍編集に携わる。2004年に編集長。2年の準備期間を経て2006年9月に古典新訳文庫を創刊。「いま、息をしている言葉で」をキャッチフレーズに古典の新訳を刊行開始。10年にわたり編集長を務めた。筋金入りの酔っ払いだったが、只今禁酒中。1956年、横浜生まれ。