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『寝ても覚めても』の<視線のサスペンス>

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

「寝ても覚めても」(C)2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS 『寝ても覚めても』 (C)2018 映画「寝ても覚めても」製作委員会/ COMME DES CINEMAS

 5時間17分の傑作長編、『ハッピーアワー』(2015)が国内外で高い評価を得た濱口竜介監督(1978~)。彼の商業映画第1作であり、2018年度のカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された『寝ても覚めても』は、同じ顔の二人の男を愛してしまう女性の約10年間を描く、傑出した恋愛メロドラマだが、東出昌大が一人二役を演じる本作のあらすじを、思いきり端折(はしょ)って記せば、こうなる。

――大阪:朝子(唐田えりか)は、写真展で一目惚れした麦(ばく/東出昌大)と運命的な恋に落ちるが、ある日彼は、理由も告げずに忽然と姿を消す(ここまでが約20分の、アヴァンタイトル/プロローグ)。……およそ2年後の東京:喫茶店で働く朝子は、顔が麦とそっくりの、日本酒メーカーに勤める会社員、亮平(東出昌大)に出会う。亮平は、飄々(ひょうひょう)として気まぐれな麦とは対照的に、堅気な性格だったが、朝子は次第に亮平に惹かれてゆき、東日本大震災を経て、二人は愛し合うようになる……。5年後の東京:亮平と暮らしている朝子は、偶然、今はモデル兼俳優をしている麦に再会する。そして朝子は、まだ麦を忘れられずにいる自分に気づく(以下、略:なお『寝ても覚めても』は、柴崎友香の同名小説を原作に仰ぎ、濱口竜介と田中幸子が脚本を執筆)――。

手堅いリアリズムと幻惑的な非リアリズム

 このように物語を要約しただけでも、本作の濱口竜介が、きわめて困難な題材に挑んだことが察せられよう。すなわち、まず、朝子が、顔は同じだが性格が対照的な二人の男を愛してしまう、という「荒唐無稽」な展開を、そして、それにともなう、現実にはありえないような<偶然>の連鎖を、どう語る/描くのか。いいかえれば、そうした理不尽な物語を、理不尽なままに、いかにして本当らしく(嘘臭くなく)映画の中に立ち上げてゆくのか――。

 こうした難題を、濱口はみごとに突破してみせた。どのようにしてか。ひとことで言えば、手堅いリアリズム演出に、幻惑的な非リアリズム演出を周到に織り交ぜ、互いを相補的に作用させることによって、である(濱口竜介自身、本作を撮るにあたって心がけたのは、「細密な日常描写と、突然訪れる荒唐無稽な展開を可能な限り同居させる、ということです」と述べている。<パンフレット>)。

 たとえば、朝子が麦と「偶然」出会う、冒頭のシークエンス。

 行き交う車、交差点を渡る人々、川に囲まれた中之島に建つ国立国際美術館などの、大阪の街を鮮明な数ショットで切り取ったのち、カメラは、脇道にたむろして花火や爆竹で遊ぶ中学生たちを写し、ついで、彼らの傍らを通り過ぎる半袖姿の朝子/唐田えりかを写す。

 次の場面は、国立国際美術館の「牛腸茂雄(ごちょう・しげお)写真展/SELF AND OTHERS」の会場。朝子の目となったカメラが、壁に展示された牛腸の写真を、横移動でなめてゆく。そしてカメラ=朝子は、「双子の姉妹」の写真の前で動きをとめる。つまり、朝子はその写真の前で立ちどまるのだが、次の瞬間、カメラは切り返しで、魅入られたような朝子の顔を、真正面からとらえる。目を見開いて「双子の姉妹」を見つめる朝子の、カメラ目線の――観客を見返す――ショットである。ついで朝子は、かすかな声で鼻歌を歌うサンダル履きの長身の男(麦/東出昌大)のほうを振り向く。会場を出て上りエスカレーターに乗った朝子は、前方から先ほどの鼻歌が聞こえたので見上げると、白いTシャツを着た麦の背中が目に入る。そして朝子は、そこでふたたび、目を見開く。物語上では朝子は麦の後ろ姿を見ているわけだが、ハッとさせられるのは、実際には彼女が、ほぼ正面を凝視するからだ……。

尋常ではない視線の強さ

 ともかく、朝子/唐田えりかの、「双子の姉妹」を見つめる正面ショットと、このエスカレーター上で麦の背中を凝視するショットは、軽いショックさえもたらす。彼女の視線の強さが、尋常ではないからだ(といっても唐田えりかは、表情筋に力を入れる大芝居をせず、ほとんど無表情のまま目を見開く)。

 では、なぜここで、このような異様/アンリアルな、朝子の視線ショットが使われたのか。いうまでもなく、朝子と麦の運命的な出会いを、強く印象づけるためにである。もちろん、この異様なショットに先立つ、画面の丁寧な積み重ね――入念な空間描写を含む――は、精妙なリアリズムの描法だが、それがあってこそ、朝子の視線ショットの異様さは突出する。そして、このシークエンスでは、朝子の視線が強調されることで、彼女がいわば<映画の主語>になる。また、それゆえ性別を問わず、観客は朝子の視点、少なくとも朝子寄りの視点から、麦という謎めいた――何を考えているのか皆目わからない――男=異人を眺めることになる。

 この朝子の異様な視線ショットののち、場面はざっと以下のように展開する――美術館から出て脇道に入った朝子と麦が、例の中学生たちが鳴らす爆竹越しに視線を交わす→麦が朝子に近寄る→二人は互いの名前を名乗り合う→麦を見つめる朝子に彼は顔を近づけキスをする……。

 こうして、スムーズなカット展開によって、現実には起こりえないような若い男女の恋愛の始まりが描かれるが、つまるところ朝子の、「双子の姉妹」の写真とエスカレーター上で麦の背中を見る視線の強度こそが、二人を結びつけるうえで決定的に作用したかのように、このシークエンスは継起してゆく。そして、くだんの朝子の視線ショットが告げているのは、『寝ても覚めても』が<視線のドラマ>でもあるということだ。

 事実、およそ2年後の東京で、朝子が、麦と瓜二つの顔の亮平と「偶然」出会うシーンでも、朝子の視線がフォーカスされる。舞台は、亮平の勤務する日本酒メーカーのオフィス(ビルの高層階)。亮平がテーブルを片付けていると、隣のビルの1階の喫茶店で働いている朝子が、コーヒーポットを取りにやって来る。朝子は亮平の顔を見るなり、大きく目を見開き、立ちすくむ(ここでは朝子はカメラ目線ではなく、画面内の亮平のほうを見る)。ややあって、動揺したままの朝子は、亮平をまっすぐ見つめ、「麦?」と言ってから、彼に並んで窓辺に立ち、ふたたび亮平を見る。むろん、事情を呑みこめない亮平は、動物園のバク?とか言ったり、自分は東京に住むのは初めて、とか、出身は姫路、大学から大阪で、などと言ったりする(亮平が自分の名前を名乗っても、朝子は彼の顔を見つめたまま、「バクやん」と繰り返す)。噛み合わない二人の会話が、サスペンスと同時にユーモアを生む絶妙なシーンだが、そこでも、おびえながら亮平を見つめる朝子の視線が、異様にきわだつ。そして朝子は、弾かれたようにその場を立ち去る。

繰り返される視線の交わり、驚きの眼差し

 翌日のシーンでも、喫茶店の中を覗く亮平の視線に気づいた朝子が、彼と目が合うなり、逃げるように店の奥へ消えるさまが描かれるが、このように、朝子と亮平の出会いのシークエンスも、ひたすら<視線の劇>として描かれる(いうまでもなく、そこで朝子が亮平に向ける視線は、冒頭で朝子が麦に向ける魅入られたような視線とは対照的に、彼女の不安や動揺を表すものであり、ゆえにこの一連の比重も<リアリズム演出>に置かれている)。

 そして、亮平があくまで「リアル」の側の人物、すなわちドラマの定点ともいうべき揺らぎの少ない人物でありつづけるのに対し、このシークエンス以降の朝子は、

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