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尋常ではない視線の強さ

 ともかく、朝子/唐田えりかの、「双子の姉妹」を見つめる正面ショットと、このエスカレーター上で麦の背中を凝視するショットは、軽いショックさえもたらす。彼女の視線の強さが、尋常ではないからだ(といっても唐田えりかは、表情筋に力を入れる大芝居をせず、ほとんど無表情のまま目を見開く)。

 では、なぜここで、このような異様/アンリアルな、朝子の視線ショットが使われたのか。いうまでもなく、朝子と麦の運命的な出会いを、強く印象づけるためにである。もちろん、この異様なショットに先立つ、画面の丁寧な積み重ね――入念な空間描写を含む――は、精妙なリアリズムの描法だが、それがあってこそ、朝子の視線ショットの異様さは突出する。そして、このシークエンスでは、朝子の視線が強調されることで、彼女がいわば<映画の主語>になる。また、それゆえ性別を問わず、観客は朝子の視点、少なくとも朝子寄りの視点から、麦という謎めいた――何を考えているのか皆目わからない――男=異人を眺めることになる。

 この朝子の異様な視線ショットののち、場面はざっと以下のように展開する――美術館から出て脇道に入った朝子と麦が、例の中学生たちが鳴らす爆竹越しに視線を交わす→麦が朝子に近寄る→二人は互いの名前を名乗り合う→麦を見つめる朝子に彼は顔を近づけキスをする……。

 こうして、スムーズなカット展開によって、現実には起こりえないような若い男女の恋愛の始まりが描かれるが、つまるところ朝子の、「双子の姉妹」の写真とエスカレーター上で麦の背中を見る視線の強度こそが、二人を結びつけるうえで決定的に作用したかのように、このシークエンスは継起してゆく。そして、くだんの朝子の視線ショットが告げているのは、『寝ても覚めても』が<視線のドラマ>でもあるということだ。

 事実、およそ2年後の東京で、朝子が、麦と瓜二つの顔の亮平と「偶然」出会うシーンでも、朝子の視線がフォーカスされる。舞台は、亮平の勤務する日本酒メーカーのオフィス(ビルの高層階)。亮平がテーブルを片付けていると、隣のビルの1階の喫茶店で働いている朝子が、コーヒーポットを取りにやって来る。朝子は亮平の顔を見るなり、大きく目を見開き、立ちすくむ(ここでは朝子はカメラ目線ではなく、画面内の亮平のほうを見る)。ややあって、動揺したままの朝子は、亮平をまっすぐ見つめ、「麦?」と言ってから、彼に並んで窓辺に立ち、ふたたび亮平を見る。むろん、事情を呑みこめない亮平は、動物園のバク?とか言ったり、自分は東京に住むのは初めて、とか、出身は姫路、大学から大阪で、などと言ったりする(亮平が自分の名前を名乗っても、朝子は彼の顔を見つめたまま、「バクやん」と繰り返す)。噛み合わない二人の会話が、サスペンスと同時にユーモアを生む絶妙なシーンだが、そこでも、おびえながら亮平を見つめる朝子の視線が、異様にきわだつ。そして朝子は、弾かれたようにその場を立ち去る。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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