茨木のり子と戦争
茨木のり子は1926年生まれの詩人である。昭和の最も厳しい時代に青春期を過ごした人で、彼女の名前を知らなくても、「わたしが一番きれいだったとき」という詩は、教科書に載ったりしているから、知っている人は多いだろう。
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
と始まるこの詩は、茨木のり子が30代で書いた詩である。彼女は軍国少女として過ごした10代の自分とその時代を見つめ続け、戦後の自分の人生において、生き方と言葉を限りなく近いものとしようとした人だった。
『自分の感受性くらい』は50代で出された詩集だが、実に初々しい。
ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
(略)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ 「自分の感受性くらい」
茨木のり子には「りゅうりぇんれんの物語」という、強制連行された炭鉱から脱走して、戦争が終わったことを知らず、極寒の地・北海道を13年間逃亡し続けた実在の中国人・劉連仁の人生を描いた長編詩もある。先日、戦時下の元徴用工の強制労働に対する日本企業への賠償命令が韓国の最高裁によって下されたが、テレビ画面に映る4人の原告のうちただひとり生き残った90歳を超える男性の姿は、「りゅうりぇんれん」と重なった。
茨木のり子は50歳から朝鮮語を学び、64歳で同時代の韓国の詩人の詩を自ら翻訳して『韓国現代詩選』を出版した。彼女が戦争をどう自らの人生に引き受けようとして生きたかが、この一事からも伝わってくる。
茨木のり子の「歳月」

大貫妙子さん
どう生きるか――。茨木のり子の言葉は、学生の頃の私を時に厳しく、時に優しく叱咤(しった)し、励ました。私にとって茨木のり子の詩とは、そういうものだった。
今回、30年ぶりに茨木のり子の詩を読むことになって、私は彼女の死の翌年、2007年に出された『歳月』を手にした。『歳月』は、彼女が25年間連れ添い、49歳の時に亡くした夫・三浦安信への想いを綴った詩集である。そこには、私が学生の頃、彼女に対して抱いていたイメージとは違う、ひとりの生身の女性が息づいていた。
あの、きっぱりとして、清々しい、力強い言葉は、ひとりの男性への深く一途な愛情と、柔らかな心と、孤独によって生み出されていたのだ。こんな激しく濃密で切ない思いを抱きしめて、生きた人であったことを知り、私は、以前よりもずっと茨木のり子が好きになった。
今回の読書会のために大貫さんが特別な一冊として選ばれたのが、茨木のり子がその夫と共に暮し、夫を亡くしてから31年間をひとりで暮らした家の写真と詩が美しく編まれた『茨木のり子の家』であった。