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朝子(唐田えりか)拡大『寝ても覚めても』で朝子役を演ずる唐田えりか

 前稿(「『寝ても覚めても』の<視線のサスペンス>」)で触れた、『寝ても覚めても』の二度目のギャラリーの場面では、朝子(唐田えりか)の親友で劇団の女優・マヤ(山下リオ)が、朝子との約束の時間に遅れてやって来る。そして、亮平(東出昌大)を加えた3人は写真展を見たあと、近くのカフェに入るが、窓際のカウンター席に朝子をはさんで亮平とマヤが座る、このカフェのシーンの演出にも舌を巻く。というのも、そこで言葉を交わすのは、もっぱら亮平とマヤだけであり、朝子は終始沈黙したまま、亮平の顔を見ているからだ。

 つまり、そうした場面設定/演出によって、マヤの活発で気が利く性格が浮き彫りになると同時に、麦(東出昌大/2役)と同じ顔をした亮平と同席している朝子の居心地の悪さが、黙ったまま亮平の顔を<見る>彼女の姿のみで、巧みに示されるのだ(朝子がその場を辞去し、走り去るところでカフェのシーンは終わるが、むろんこの時点でも、朝子には亮平は麦と同一人物にしか見えず、しかも彼女はそのことを打ち消そうとして混乱し、亮平を避けつづける)。

脇役のキャラクターが鮮明化したシーン

 ところで、マヤ/山下リオがそうであるように、『寝ても覚めても』では「リアル」の側の人物である脇役=サブキャストたちも、実にヴィヴィッドな存在感を示し、朝子と麦・亮平をめぐるドラマにさまざまな形で絡んでゆくが、マヤと朝子がシェアしている部屋に亮平と彼の同僚・串橋耕介(瀬戸康史)が招かれる場面での、マヤと串橋の間で起こる小波乱が強烈な印象を放つ。

 舞台上のマヤが朗々とセリフを喋る、チェーホフの『三人姉妹』の上演を録画したDVDの映像で、その場面は始まる。マヤがモニターの電源を切ると、亮平は、いやー、女優さんやねえ、とか言ってマヤの演技に感心する。いっぽう、串橋は不機嫌そうな顔で、俺帰ると言ってから、やや間を置いて、こんなもの安っぽい、自分がちやほやされたくて、お客さんを利用しているだけ、だったらこれ、ぜんぜん的はずれだよ、誰にも届かない……などとマヤの演技を酷評する。そしていきなり、チェーホフの一節を張りのある声で諳(そら)んじてみせ、自らのチェーホフ論を述べたてる。串橋には舞台俳優を志したが挫折した過去があり、その鬱屈を、彼はマヤの舞台姿を見て呼び覚まされ、嫉妬まじりの思いを彼女にぶつけたのである。ひりひりするようなシーンだが、とつぜん朝子が、きっぱりとした口調で、マヤの努力は的外れじゃない、マヤの演技は自分にはちゃんと届いたと言う(それまで沈黙しており、ひたすら<聞く人>だった朝子が、この言葉を発する瞬間は鳥肌もの)。そして、気配り上手な亮平も機転の利いた言葉を串橋に投げ、彼をマヤに詫びさせることで、その場の険悪さはなんとか収まる――。

 「自分が諦めたことをずっと続けている人がいて、その人が輝いていて、それで言ってしまいました」、串橋はそう言ってマヤに謝るのだが、串橋の鬱屈を痛々しく表現する瀬戸康史の繊細な演技といい、彼の棘のある言葉を柔軟に受けとめる山下リオの細心の演技といい、はたまた二人が口にする、入念に練られた(そして入念にリハーサルされた)濱口映画独特の強い訴求力を放つセリフといい、主語化した(前景化された)サブキャストらが各々のキャラクターを鮮明にする、極めて見ごたえのあるシーンだ(カメラも役者の顔に寄り過ぎず、的確な引きのフレーミング/構図でこの小波乱を写しつづけるが、またマヤと串橋を前景に、亮平を中景に配したこの場面では、朝子が後景に、すなわち、奥まった場所の――部屋の壁を窓型にくり抜いた――対面キッチンカウンターに立つという、奥行きを活用した縦の構図が、その空間に豊かな表情をあたえている)。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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