岸政彦 著
2018年11月30日
『マンゴーと手榴弾』というたいへん魅力的なタイトルをもったこの本は、冒頭で作者が「本書は、生活史調査の方法論と理論について書かれた本である」と宣言しているとおり、社会学における学術用語の知識のない門外漢にとっては、ある意味とても難解な本だった。
『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』(岸政彦 著 勁草書房)
ところが、そういう覚悟をもって眉間にシワを寄せて読み始めると、ほぼ全編にわたって鏤(ちりば)められている各々の「語り」の持つ圧倒的なリアリティと面白さにハートを直撃され、戸惑いを感ずる。実に罪つくりな本だ。
それはたとえば、沖縄戦で集団自決を逃れて生き延びた老女の語りの次のような部分を読めば、お分かりいただけると思う。
「逃げる途中で食べるものは何もないですよ。こっちに来てからはじめて、水も飲んで。そのときに、私が水飲んだときに臭いよーって言ってたときに、兄や姉が、翌日朝行ってみたら、人間の血があったんだそうですよ。もうあちこちで倒れてますからね。水がたまっていると思って汲んできて飲ましたのが、人間の血だったそうですよ」
このナマな語りがもたらすようなリアリティが全編にたぎっているのだが、一読してわかるように、それらはあまりに未整理であり、時制も前後見境なく畳み込まれている。そしてそれらは作者が再三指摘するように、「だからこそ」意味がある「語り」の重要な要素を具えているのだ。
まったく本論を外れてしまうが、この本を読んでいて常に頭に去来していたのは編集の現場でのことだった。というのも、こういう未整理なテープの起こしは、編集者であれば誰もが日常的に触れるテキストで、それは対談や座談会、あるいはインタビューなどで語られた言葉の群れだが、えてしてそれらは言い淀んだり言い間違えたり、唐突に話題が飛んだりしている。編集者の仕事はそれら言葉の枝を剪定し、整えて読者に届けることだが、果たしてその作業は正しいことなのか、本書を読むと揺らいでしまう。ひょっとして体のいい盆栽のような言葉を紡いでいるだけではないか。ナマなテープ起こしには矯められる以前のイキのいい言葉が溢れているというのに……。
それはさておいて、さまざまな学者が著した生活史調査の本のなかから作者が拾い上げてくる「聞き取り」の成果の魅力たるや半端ではなく、特に「プリンとクワガタ」という章(これまた絶妙なネーミング!)はそのオンパレードでもあり、「実在への回路としてのディテール」という副題にも現れているが、語られた言葉を生のまま受け取ることの意味を十分教えてくれる。
なぜ「プリン」と「クワガタ」なのか。その由来するところを語りたいのは山々だが、ネタバレになるのでやめる。そのかわりに作者の次の言葉を引用しておく。
「それにしてもクワガタという言葉は、具体的なエピソードとディテールを連ねて書かれたこの本(上間陽子著『裸足で逃げるーー沖縄の夜の街の少女たち』2017年 太田出版刊)のなかでも、突出して具体的で、あまりにも奇妙で、だからこそ、それがそのときその場所で実在していたということを強く印象づける」
こう書き写していて、この一文がそのままある文芸批評の文章に出てきたとしてもまったく違和がないことに気づく。いやむしろ、文学作品におけるリアリティについて書かれた秀逸な文章かと見紛う。そしてこの章の結びである以下の文章。
「これらの過剰なほど具体的なディテールは、ある種の『繋留点』である。それらは人びとのおこないや語りを、歴史と構造に結びつけるのである」
これはまさに、小説のことではないか。
本書全体を通して感ずるのは、生活史調査における「聞き取り」という行為は社会学の枠を超えて実に小説的であり、また文学の本質に肉薄しているということである。
そしてそのことと呼応するように、今月(11月)の文芸誌「新潮」(2018年12月号)の表紙には〈岸政彦「図書室」(130枚)〉との堂々たる文字が踊っている。こちらは残念ながら未読であるが、そしてすぐにでも手に取りたいという誘惑に駆られるが、それは本書を再読・再々読し、少なくとも「方法論」と「理論」を使い分ける微妙な言語感覚を理解できるまでとっておこうと思う。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA 「神保町の匠」とは?
年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。
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