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寝ても覚めても」の公式上映後、観客の声援に手をふる(右から)濱口竜介監督、唐田えりかさん、東出昌大さん拡大2018年のカンヌ国際映画祭で『寝ても覚めても』の公式上映後、観客の声援に手をふる(右から)濱口竜介監督、唐田えりかさん、東出昌大さん

 『寝ても覚めても』を撮るにあたって、濱口竜介監督が直面した最大の難関のひとつは、すでに触れたごとく、朝子(唐田えりか)の言動にまつわる理不尽さを理不尽さのままに、いかにして本当らしく=嘘臭くなく描くのか、という点にあった。そして私たちは、リアリズムと非リアリズムが相補的に作用する演出によって、濱口がこの難関を突破しえたという、とりあえずの解を出しておいた。

 そのことを踏まえつつ、ここではやや角度を変えて、『寝ても覚めても』が恋愛映画でありながら、サイコスリラーめいた不気味さを垣間見せる点に目を向けてみたい。より具体的に言えば、朝子の理不尽な恋を正面きって描くことで、また麦(東出昌大)という行動原理がまったく不可解な人物を登場させることで、本作は恋愛映画というジャンルの臨界点/限界点に触れてしまったがゆえに、もうひとつのジャンルであるサイコスリラー映画に危うく接近するに至った点について、考えてみたいのである。

 まず言えるのは、多かれ少なかれ、理不尽さというファクターをはらんだ恋愛という「病(やまい)」を、朝子は或る極端なかたちで生きてしまうことだ。

 すなわち――朝子の(文字どおり魔法にかけられたような)麦への一目惚れに始まる彼との恋愛や、理由の不明な麦の失踪からして、すこぶるアンリアルな出来事であるし、さらに朝子が、麦と顔は同じだが性格は対照的な亮平(東出昌大/2役)に出会い、愛し合うようになるという、これまたかなりアンリアルな展開に加えて、麦と再会した朝子は(まるで麦の催眠術に操られるかのごとく)、ふたたび彼に引き寄せられていくが、しかし再度、朝子は翻意し、亮平のもとに戻るという、一見したところ支離滅裂な言動をみせる。しかし、そうした朝子の振る舞いが、濱口竜介のさまざまな演出上の創意工夫によって、したたかな映画的説得力を持ちえた点はすでに述べたとおりだ。

瓜二つの男をめぐる認知の歪み/狂い

 ここであらためて強調したいのは、朝子が葛藤や逡巡(しゅんじゅん)ののち、亮平と愛し合うことになる最大の理由は、亮平が麦と同じ顔(そして声)の男だからである。

 たしかに朝子は、麦とは対照的な亮平の、実直で気遣い上手な人柄を好ましいと思いもしたが、それは彼女が亮平に惹かれた、少なくとも第一の理由ではない。朝子はあくまで、麦の外見/容姿/声を、そして麦の面影を、亮平のうちに見て取ったがゆえに、亮平と愛し合うようになったのであり、つまり、亮平を通して麦を愛したのである。さらに極言すれば、朝子は長いあいだ亮平を、麦のコピー/シミュラークル(模擬物)として、いわば麦と交換可能な男として、さらにいえば身代わりとして愛していたのだ(もっとも、相手が瓜二つの人物という点をのぞけば、それ自体は現実にもありえないことではないし、ジャック・ラカンなどは、もとより恋愛とはすべからく錯覚であり、恋人同士が互いにあらぬ幻を求め合うことだと、身も蓋もなく言ったが)。

 むろん、もっと微分して言えば、朝子はときに亮平を麦とは別人だと思い、ときに亮平と麦を同一人物だと思い直し……という揺らぎの中を生きたのであり、ということはつまり、麦と亮平の同一性をめぐって、朝子の心の中で或る認知の歪み/狂い(錯覚)が生じていたことになる。そしてこの、瓜二つの男をめぐる朝子の認知の歪み/狂いが描かれるがゆえに、 ・・・ログインして読む
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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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