2018年11月27日
『寝ても覚めても』を撮るにあたって、濱口竜介監督が直面した最大の難関のひとつは、すでに触れたごとく、朝子(唐田えりか)の言動にまつわる理不尽さを理不尽さのままに、いかにして本当らしく=嘘臭くなく描くのか、という点にあった。そして私たちは、リアリズムと非リアリズムが相補的に作用する演出によって、濱口がこの難関を突破しえたという、とりあえずの解を出しておいた。
そのことを踏まえつつ、ここではやや角度を変えて、『寝ても覚めても』が恋愛映画でありながら、サイコスリラーめいた不気味さを垣間見せる点に目を向けてみたい。より具体的に言えば、朝子の理不尽な恋を正面きって描くことで、また麦(東出昌大)という行動原理がまったく不可解な人物を登場させることで、本作は恋愛映画というジャンルの臨界点/限界点に触れてしまったがゆえに、もうひとつのジャンルであるサイコスリラー映画に危うく接近するに至った点について、考えてみたいのである。
まず言えるのは、多かれ少なかれ、理不尽さというファクターをはらんだ恋愛という「病(やまい)」を、朝子は或る極端なかたちで生きてしまうことだ。
すなわち――朝子の(文字どおり魔法にかけられたような)麦への一目惚れに始まる彼との恋愛や、理由の不明な麦の失踪からして、すこぶるアンリアルな出来事であるし、さらに朝子が、麦と顔は同じだが性格は対照的な亮平(東出昌大/2役)に出会い、愛し合うようになるという、これまたかなりアンリアルな展開に加えて、麦と再会した朝子は(まるで麦の催眠術に操られるかのごとく)、ふたたび彼に引き寄せられていくが、しかし再度、朝子は翻意し、亮平のもとに戻るという、一見したところ支離滅裂な言動をみせる。しかし、そうした朝子の振る舞いが、濱口竜介のさまざまな演出上の創意工夫によって、したたかな映画的説得力を持ちえた点はすでに述べたとおりだ。
ここであらためて強調したいのは、朝子が葛藤や逡巡(しゅんじゅん)ののち、亮平と愛し合うことになる最大の理由は、亮平が麦と同じ顔(そして声)の男だからである。
たしかに朝子は、麦とは対照的な亮平の、実直で気遣い上手な人柄を好ましいと思いもしたが、それは彼女が亮平に惹かれた、少なくとも第一の理由ではない。朝子はあくまで、麦の外見/容姿/声を、そして麦の面影を、亮平のうちに見て取ったがゆえに、亮平と愛し合うようになったのであり、つまり、亮平を通して麦を愛したのである。さらに極言すれば、朝子は長いあいだ亮平を、麦のコピー/シミュラークル(模擬物)として、いわば麦と交換可能な男として、さらにいえば身代わりとして愛していたのだ(もっとも、相手が瓜二つの人物という点をのぞけば、それ自体は現実にもありえないことではないし、ジャック・ラカンなどは、もとより恋愛とはすべからく錯覚であり、恋人同士が互いにあらぬ幻を求め合うことだと、身も蓋もなく言ったが)。
むろん、もっと微分して言えば、朝子はときに亮平を麦とは別人だと思い、ときに亮平と麦を同一人物だと思い直し……という揺らぎの中を生きたのであり、ということはつまり、麦と亮平の同一性をめぐって、朝子の心の中で或る認知の歪み/狂い(錯覚)が生じていたことになる。そしてこの、瓜二つの男をめぐる朝子の認知の歪み/狂いが描かれるがゆえに、
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください