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『寝ても覚めても』拡大『寝ても覚めても』の公式サイトより

 『寝ても覚めても』のはらむサイコスリラー的な要素については、じつは蓮實重彦氏がすでに、濱口竜介との対談で興味深い発言をしている(蓮實氏は「サイコスリラー」ではなく、「怪奇映画」というタームを使っているが:対談 濱口竜介×蓮實重彦「さいわいなことに、濱口さんも役者が好きなんです――『寝ても覚めても』をめぐる三つの問題点」、『ユリイカ/特集・濱口竜介』、2018年9月号所収、青土社)。

 蓮實氏はこう言う――「イメージの類似〔ないし瓜二つ〕というのは映画ではいちばん難しくて、悲劇、あるいは犯罪劇としては『めまい』(アルフレッド・ヒッチコック監督、一九五八年)がありますよね。〔……〕それから喜劇としてはプレストン・スタージェス〔監督〕の『結婚五年目〔DVDタイトル:パームビーチ・ストーリー〕』(一九四二年)〔……〕があって、ほとんど同じ人がみんな似てしまう〔一組のカップルと瓜二つのもう一組のカップルが唐突に登場する〕。ところが、『寝ても覚めても』はシリアスな、むしろメロドラマと言っていいわけでしょ。メロドラマに類似を導入するという大胆さはどこからきたんでしょう」。

 この蓮實氏の発言に対し濱口竜介は、二人のよく似た男という、柴崎友香の原作の設定にインスパイアされつつ、映画でそれをやるなら一人二役しかないと直感的に思った、という意味のことを述べる。それを受けて蓮實氏は、後半の、麦(東出昌大)がレストランの奥から出て来て、亮平(東出昌大/2役)とワンショットの中に収まる合成画面に触れ、あれはどのように撮ったのか、と濱口に問う。濱口によれば、深夜まで苦労して、特殊技術による合成画面を作りあげ、普通〔リアル〕の人・亮平と、幻想的〔アンリアル〕な麦という対比がいちばん際立つように撮ったというが、あの幻惑的なショットも、本作の最大の見どころのひとつだ。

 そして後段で蓮實氏は、「〔『寝ても覚めても』は〕怪奇映画じみた感じもありますよね」、と注目すべき発言をする。それに対し濱口は、「それはカンヌ〔国際映画祭〕でもよく言われました。どちらかというとすべて現実の話として演出しているんですけれども、自然と怪奇的な方向に物語が引き裂かれていくというか」、とやや言葉を濁しているが、私見によれば、すでに述べたように、恋愛という病に取り憑かれた朝子(唐田えりか)の意識/無意識の中で、麦と亮平の同一性をめぐる認知の歪みが生じるというアンリアルさが、そしてそれを増幅する麦という幽霊的な人物のアンリアルさが、この映画をサイコスリラー/怪奇映画に接近させているのだと思われる。同語反復になるが、本作は恋愛の理不尽さを極限まで描くことで、恋愛映画というジャンルの臨界点に触れ、それゆえにこそ、サイコスリラーに接近してしまったと思われるのである。

 もっとも、じつは濱口はかなり意図的に、サイコスリラー、ないし怪奇映画の要素を作中に見え隠れさせているようにも思われる。たとえば、冒頭の大阪における朝子と麦の出会いの場面でも、朝子と亮平の距離を縮めるきっかけとなる東京での場面でも、舞台となるのは牛腸茂雄の写真展であり、しかも、どちらの場面でも朝子が見入るのは牛腸の「双子の姉妹」の写真であった(朝子は麦と出会う以前から、「双子」のイメージに執着している)。つまり、その二つの場面で示されるのは、おそらく、朝子に取り憑いている<双子/分身・ドッペルゲンガー>という「類似」の観念であるが、それは映画の中では顕在化することのない、潜在的な主題にとどまっていると言える。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

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