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[書評]『月』

辺見庸 著

今野哲男 編集者・ライター

いまや想像力で回帰せよ

 本書は、角川書店の「本の旅人」に、2017年11月号から18年8月号まで連載されたフィクション。メタフィジカルな想念とフィジカルな想像力が同等に展開される「相模原障害者殺傷事件」を題材にした小説だ。

『月』(辺見庸 著 KADOKAWA)定価:本体1700円+税拡大『月』(辺見庸 著 KADOKAWA) 定価:本体1700円+税
 作品を語る前に、念のため、あの事件を簡単に振り返っておこう。

 この出来事は2016年7月26日の午前2時過ぎ、神奈川相模原市にある知的障害者福祉施設「県立・津久井やまゆり園」の入居者棟に窓ガラスを割って単身で侵入した当時26歳の男が、多くは寝静まっていただろう入所者の居室を次々に襲い、所持していたナイフや包丁などを使って19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせたというものだ。

 戦後日本で最悪の大量殺人事件であっただけでなく、以下のような特異な問題点を孕んでいたこともあって、当時マスコミは、単なる報道以上の、様々な批評や識者のコメントを繰り返し伝えた。

 すなわち、①事件後、すぐに自首した当時26歳の男が同施設の元職員だったこと(当初は臨時職員だったが、途中から常勤になっている)、②彼が以前から各所でこの事件を仄めかす自己主張を繰り返し、さらには実行に対する諒解を促すと思しい衆院議長宛の手紙を事前に届けていたこと、③これらが、警察と園の知るところとなって2月19日に協議の上「自己退職」を決意、即日「措置入院」したものの3月2日に措置が解けて退院、警察の指示を受けた園が防犯カメラの増設などで警戒を強めたが、その甲斐なく4カ月半後に凶行が起きたこと。④さらに事件後に犯人がマスコミ相手に積極的な自己主張を展開し、「私は意思疎通が取れない人間(彼の用語で言えば、名前・年齢・住所などを正確に自己紹介できない、いわゆる『心失者』)を安楽死させるべきだと考えております」(雑誌「創」2017年9月号)という「優生思想」的な主張を堂々と展開していること、などに関するものだった。

 これらの報道で一時的に沸騰したマスコミには、残念ながら欠けていると判断せざるを得ない重要な視点があった。端的に言えば被害者の視点だ。生き残った被害者についてなら家族のコメントの形でわずかながら伝えられることがあったものの、報道が扱った話題のほとんどは事件の特異性と加害者に関することであり、よくて家族の様子が細々とレポートされるだけで、1995年のオウム・サリン事件以降、年々強調されるようになった「被害者」に関する情報はほとんどないと言ってよい状況だったのである(警察が、「被害者」ではなく「被害者家族」に配慮して被害者を匿名にしたことが、そういう事態につながった側面も大きい。そして、この措置に疑義を呈する言説も少ないながらありはしたが、そこでも被害者の名は慎重に隠されたままだった)。

 これを、この国の底流に連綿と流れる「優生思想」が引き起こした事態だと正確に訴え続けているのは、おそらく、匿名のまま忘れ去られようとしている「相模原障害者殺傷事件」の被害者たちを悼むパフォーマンスを、今も(おそらく「優生思想」が潰滅するまでは)上演し続けている、身体障碍者の劇団「態変」くらいのものだろう(『劇団態変の世界』〈論創社、2017年〉参照)。

 さて、『月』の主人公「きーちゃん」は、目に「マスカットグリーンの膜」がかかって向こう側がみえず、舌は動くが舌先が動かない(そのため、声は意味をなさない奇声として音にされ、満足なコミュニケーションを期待することができない)。耳にはザーザーという「無音のスノーノイズ」が聞こえているが、こちらは超高性能の集音器としても機能しており、ときに上から自分を指さして言うと思しい、したり顔をした他者の無神経な言葉が聞こえてくる。たとえば「ぜんたいに表情にとぼしくて、はい、これですね、このように眼光がにぶい。これ、眼疾もあるけどね、どろーんとしている。存在そのものに内的意欲がかんじられない。まわりにたいして無関心な顔貌なんですね」などという言葉を理解しているのだ――。性別はわからず、首はトーチカのように肩に固くめり込み、手足もしなびたダイコンのようにじょじょにしぼんで、からだ全体に以前はゾル状だった痛みが、ここにきて膠化(こうか)し始めて、痛みこそ存在そのものだと感じている。つまり、「きーちゃん」とは、言葉を話さない障害者であった被害者たちに代わり、作者である辺見庸が、想像力で合成して作り上げた被害者の文学的な似姿なのである。

 この小説ではそんな「きーちゃん」が、一人称文体を使って自分を内側から語っていく。これは、現実の殺された被害者のなかには、自分の内面を他者に過不足なく伝わるように語ることができる人がほぼいなかった以上、作者が「きーちゃん」に仮託して、通常のリアリティの奥底に潜む、言葉にはならない存在のリアリティを、自分なりの文学の言葉に翻訳して伝えるしかなかったことを示しているはずである。

 つまり、本書の文学的な試みの成否は、そのような存在を語る中間言語としての作者の言葉が、たとえば多くの人の奥底にあるだろう隠れた「優生思想」と、現実の犯人が強く主張している「『心失者(≒役に立たない人)』は殺せ」というイメージを無に帰するものとして、普遍的な水準まで達することができるかという一点にかかっているといってよいだろう。

 本書には、完結するまでの間に作家の断筆宣言があり、復活して連載が完結した「本の旅人」2018年8月号では、連載終了号での恒例になっている単行本化の予告が載らないなどの事態があったらしい。作品に、この事件に対してのみではなく、この時代への呪詛と嫌悪と挑む気配が濃厚に漂う以上、「むべなるかな」と本書を襲った困難に納得するのもよいが、私としては、この国の通弊である「隠れた優生思想」や「もの言わぬ間に事態がどんどん悪くなっていくこと」に抗して、障害者の内面という不可触のタブーだった領分に自分を追い込み、言語にならぬものを言語に翻訳するという孤独な暴挙を果たしたことだけでも既に、作者の文学的な勝利は獲得されたのだと思っている。

 そのほんの一例として、最後に、本書の終わり近くで「さとくん」の手で展開される、あの殺戮の全容を、次のように相互によく似たシーンの連続として表現した箇所を紹介しておこう。

「こんばんは……、ぼく、さとくんです」
「まちがいなくさとくんです」
「失礼します」
「失礼しました」
「わかりますか?」
「なにか、わかりますか?」
「わかりませんか?」
「ことば、わからないのですね」
「なにか、いえますか?」
「いえないのですね、なにも?」
「こころ……ないのですね?」
「こころです。にんげんの、こころ……」
「あなた、こころ、ございませんよね?」
「かくにんさせていただきます。おこころほんとうにないのですね?」
「こころが、ないのですね? まちがいないですね?」
「はい。了解です」
音。
「夜分、ほんとうにすみません」
(以下、「音」で区分される微妙に異なるほぼ同様の場面が続く)

 この同語反復的な会話から、しばらく間を置いた最後の6行で、「きーちゃん」はこう言うのだ。

かがやいている。かれ、赤い星のようにかがやいている。顔から足まで、ぜんしんが、まっ赤に濡れて、かがやいている。もうすぐだ。
聞こえる。わたり廊下をあるいてくる。さとくん。たちどまった。なにかいった。
「ああ、月だ。月に虹がかかっている。カゲロウがはりついているよ。月と虹に、べったりと……虫が」

 孤高の作家によってこのように表現され、保存された時間があったことを、忘れたくないと、強く思っている。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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年間2万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。

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筆者

今野哲男

今野哲男(こんの・てつお) 編集者・ライター

1953年生まれ。月刊『翻訳の世界』編集長を経てフリーに。「光文社古典新訳文庫」に創刊以来かかわり、また演劇体験をいかして『セレクション 竹内敏晴の「からだと思想」』全4巻(藤原書店)などを編集。著書に『竹内敏晴』(言視舎評伝選)、共著に森達也との『希望の国の少数異見』(言視舎)、インタビュアーとしての仕事に、鷲田清一『教養としての「死」を考える』、吉本隆明『生涯現役』(以上、洋泉社)、木村敏『臨床哲学の知』(言視舎)、竹内敏晴『レッスンする人』(藤原書店)、『生きることのレッスン』(トランスビュー)など。現・上智大学非常勤講師。