2018年12月03日
「連載 必見! 濱口竜介『寝ても覚めても』」で論じたように、濱口竜介監督の『寝ても覚めても』は、東出昌大が二役を演じる恋愛映画の傑作だが、本稿では、映画という表象メディアで最も効果を発揮する<一人二役>について、あらためて考えてみたい。
そもそも、映画における一人二役とは、じつに奇妙な手法である。というのも、一人二役映画では、その設定が、他人の空似(そらに)であれ双子であれSF的複製人間であれ、むろん一人の俳優が二人の人物を演じるが、観客はそのことを承知しているにもかかわらず、同時に、それが二人の別人であると見なして映画を観ている。同じ俳優が二人の人物を演じているという事実を、いったん忘れて(あるいは忘れたふりをして)、もしくはその判断を保留する(括弧に入れる)かのようにして、映画の中に入りこむわけだ。
これはいわば、自分で自分をうまいぐあいに騙すことであり、さらにいえば、本当のことより、「本当らしさ(というフィクション上の約束事)」を受け入れることでもある。もっとも、一人二役のみならず、そもそも映画(や演劇)における俳優を、観客は俳優その人であると了解しつつも、同時に作中人物であると見なすという認知のアクロバットを、脳内でやっているわけだ(もちろん、なかば無意識のうちに、である)。映画の世界に引きこまれている筈の観客が、にもかかわらず、俳優の演技の巧拙などを判断しうるのも、そうした理由からだ(その場合、観客は「ベタ」であり、かつ「メタ」であるという意識の状態で映画に接しているわけだ)。
ともあれ、まさしく映画や演劇は“魔術”なのだが、以下に、『寝ても覚めても』以外の<一人二役映画ベスト…>を挙げておこう(製作年順)。
■『俺は善人だ』(ジョン・フォード監督、エドワード・G・ロビンソン主演:一人二役、1935)
無遅刻無欠勤の実直なサラリーマンのジョーンズが、脱獄した凶悪なギャングのボスのマニヨンと瓜二つであることから起こる悲喜劇を、ジョン・フォードが30年代ハリウッド古典映画の粋を集めたような簡潔、かつスピーディな話芸で描いた傑作。替え玉の替え玉というアイデアや、小心者のジョーンズが最後に見せる大博打などなど、ハラハラドキドキの連続だが、彼が密かに憧れる彼の同僚役の美人ジーン・アーサーが、茶目っ気たっぷりのスクリューボール(変人)・ウーマンを溌剌と演じていて、眼福だ。二人のエドワード・G ・ロビンソンを同一フレームに収める合成画面も完璧な仕上がりで、目を見張る。ジョーンズのカメラ目線の正面ショットにも一驚。
■『暗い鏡』(ロバート・シオドマク監督、オリヴィア・デ・ハヴィランド主演:一人二役、1946)
社交界で評判の高かった名医が殺害され、容疑者としてルース・コリンズ(オリヴィア・デ・ハヴィランド)が浮上するが、彼女にはアリバイがあった。そんななか、ルースと瓜二つの双子の姉妹、テリー・コリンズが捜査線上に浮かぶが、彼女にもまたアリバイがあり、警察の捜査は難航する。そこで警察は、事件の解明を新進の精神科医スコット・エリオット(リュー・エアーズ)に依頼。スコットはさまざまな心理テストの結果、姉妹の一人がパラノイア/偏執狂を病んでいることを突きとめる。やがて彼女は、正常なほうの姉妹を装ってスコットのオフィスを訪れるが、それを見抜いたスコットも彼女に罠を仕掛け……というツイストの利いた展開にサスペンスが張りつめる。フィルム・ノワールの名匠、シオドマクの手になるスリラー映画の逸品だが、本作でも、二人の姉妹を同一画面に収める合成ショットが、鏡の巧みな活用とあいまって出色。ちなみにオリヴィア・デ・ハヴィランド(1916~)は、ヒッチコックの『レベッカ』などでヒロインを演じたジョーン・フォンテイン(1917~2013)の姉だが、この東京生まれの美人姉妹は、瓜二つというほど酷似してはいない。またこの姉妹が不仲であったことは、語り草になっている。
■『古都』(中村登監督、岩下志麻主演:一人二役、1963)
川端康成の同名小説を原作に仰いだ、端正で優美なフィルム。
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